
柵の向こう側で起きている出来事を、たった一度の体験でどこまで把握できるだろうか。どこまでのことを言語化できるだろうか。だからこのレヴューの執筆も、切り口をどう設定しようかといささか労を要したのだが、少なからぬ煩悶を伴う、この確証のない未達感は、単に本作に仕組まれた情報が過剰なことに起因するのではないだろう。むしろ正確を期するなら、それは一つに、技術と倫理への問いが本作のモチベーションの中心にありながら、そこに喪失されようとしている「主体」への拘泥というもう一つの問題が大きく浮上したからではないか。言い換えれば、作家および企画者の目論見がはっきりとあったとはいえ、そのための作品の初期設定とそれが及ぼす生成AIの「人工的な限界」が、その想像の範疇を超え出て作品を複雑化させたと考えられるのである。もちろん、それをネガティヴな帰結と捉える必要はない。むしろ、本作においては、作家および企画者さえも、私たち鑑賞者と同じく未見の作品に向き合ったのであり、このことが奇しくも作品の自律性や、作家の自立性という、消し去り難い近代モデルについての議論を想起させたという点において問題提起的であったといえよう。

本作の舞台は戦時下の非常事態である。崩れた壁、床に散乱する石膏や石。この戦場を舞台に繰り広げられるのが、生成AIによる発話を実装された新旧の戦争兵器=「ドローン(DJI Mavic 3)」と「カタパルト」の「ふたり」による対話劇である。
「戦争」という、ともすると躊躇するような大仰な設定は、しかし、長引くロシア・ウクライナ戦争にイスラエルによるガザ侵攻、さらに本展の最中に勃発したイスラエル・アメリカによるイラン攻撃と、第二次世界大戦を経験した人類が性懲りもなく続ける、非常の日常化への欲動に対する作家および企画者の切迫した危機感があるからだろう。そしてこうした戦争こそが、目下、私たちの認識や行動を急速に統御し始めた生成AIの技術開発を推し進め、非倫理的に活用する実験場となっているからである。航空機にはじまりレーダーや原子爆弾、弾道ミサイル。いうまでもなく戦争は技術(テクノロジー)とインフラを大幅に更新し、なにより資本主義を駆動させるガソリンの役割を果たしてきた。その極めつきが本作の主役となるドローンであり、そこに実装されたAIというわけである。
ちょっと想像すればわかるように、技術はある閾値を超えるとあっという間に私たちの日常に雪崩れ込み、思考/志向や生活を支配する。コンピューターとインターネットの普及につづきスマートフォン、さらにSNSが登場したことで、この30年間がどれほど変化したことか。わずか数年前にはAIによるシンギュラリティーに危機感を煽られていたのに、いまではそんな心配をよそに、AIは社会に不可欠な存在として積極的に使用されている。それくらい私たちは移り気で軽薄で、おそろしく順応性が高い。ゆえに、やんツーと企画者は、協働のプロンプトからも明らかなように、こうした人間の本性と技術論の展開をうけて、「戦争」を起点にその先にある根源的な問い——ハイデガーからスティグレール、ユク・ホイに至る哲学者たちが提起、検証してきた技術による「ゲシュテル(総駆り立て・集立)」とその議論の更新へと本作の真意を定める。外部器官である技術-道具は、私たちの認知能力を補完、向上させる効能がありながら、一方で、誰もが使用可能、アクセス可能な技術は簡単に私たちを馴致し、「みんな」と同じという意識のなかで、その使用についての倫理を不問にする。本作はその現実を、作品の構造を通して改めて私たちに突きつけようとする。
柵の向こう、遠くの正面壁には、ドローンとカタパルトの対話劇を冷静に見つめ、ときにスマートフォンで「記録する」私たち自身の姿が、主役であるドローンによって撮影され、映し出されている。安全な場所から遠くの出来事を見つめる私たちは、ドローンとカタパルトにとっては外部の記録媒体=技術-道具と同様である。私たちの記憶とスマートフォンの記録は、スティグレールのいう第三次過去把持に等しく、だから同様にその倫理性を問われることになる。好奇心から出来事を消費する外部としての私は、倫理的でいられるのだろうか。戦場での20分の対話が終わり、柵の内側へと入室が許可される。そこには、シミュレートされた演出とはいえ、戦場が再現され、本作の制作プロセスやプロンプトに加え、戦時下のウクライナについてのリサーチ映像が流れている。そして私たちは二重に傍観者となり、外部媒介者=メディアとしての自己を顧みることになるのである。

毎回異なるドローンとカタパルトの対話は、今回の上演では、戦争に加担することへの逡巡を延々と吐露するドローンに対し、一方のカタパルトがその欺瞞や無益さを指摘しながら、次第に彼の逡巡を先回りして代弁・翻訳するかのように進んでいく(「エヴァンゲリオン」の一幕を見ているようなアニメ調のふたりの発話は技術的な制約によるものらしいが、ことの深刻さとは不釣りあいなその調子は、かえって実感もなく戦争の情景を消費する私たちの、その距離感にふさわしいものなのかもしれない)。プロンプトにより対照的なキャラクター設定がなされたはずの「ふたり」の主張はしかし、ところどころ交錯して、もともとのキャラクターに即して正確につかもうとするうちに、把持していたはずの記憶が混濁してくる。こうした展開を作家がどこまで想定していただろうか。とはいえ、この不安定な整理のしがたさこそが「人間らしさ」なのだろうか。
こうして本作の第二の論点が浮上する。つまり、ドローンとカタパルトの「ふたり」が、モノ=外部機能-技術的対象であるにもかかわらず、人間の代替のように、いやそれ以上に強固な、一個の「主体」のように振る舞っているということである。統一された主体という幻想を打ち砕いたポスト・モダン時代の「器官なき身体」=生成変化する人間というモデルに対して、本作では外部が主体として立ち現れ、「器官」が強烈な主体性を発揮する。
「浮遊する器官」のタイトルは、人間を補完する道具=器官であったはずのドローンとカタパルトが、統御しようとする人間の意思とは無関係に、あるいはその意思を超え出て機能していることを示している。しかし、個々の独立した器官が有機的に組織化され、私たちの生と再接続することこそがこの痛ましい戦場における倫理として望まれるのだとすれば、本作において、当の人間は不在にして、単独の器官だけが亡霊のように独立した主体として回帰してくることを、どのように受け止めれば良いだろうか。器官に主体を奪われ、宙吊りにされた人間そのものへの言及が留保されるなか、その先を思考することが、ここで私たちに託されているのだろうか。

人間と器官、主体の有無と複数性。ここで問うてきたことは翻って、作家とは何か、作品とは何かというアートにおける根本問題にも当然触れることになる。もはや作品を作品たらしめてきた「単一性」「唯一性」の神話が疑われて久しいが、そうしたなか、さらに作家自身でさえ二度と同じものを見ることができないという、本作における「複数の唯一性」を、どう捉え直していくことができるだろう。そこに、作家なきあとの作品の自律生成としての希望をみることができるだろうか。
文字通り、アート=技術を総駆り立て(ゲシュテル)に供するのか、あるいは私たちの生と結びついた生き生きとしたものにするのか、その試みのはじまりというべき展覧会といえるだろう。
専門は近現代美術およびデザイン。主な企画に「しないでおく、こと。-芸術と生のアナキズム」(豊田市美術館 2024年)、「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」 (豊田市美術館、2022年)、「αMプロジェクト2022 判断の尺度」(gallery αM、2022年)、「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」(豊田市美術館、2019年)、「切断してみる。―二人の耕平」(豊田市美術館、2017年)、「ユーモアと飛躍 そこにふれる」(岡崎市美術博物館、2013年)など。

