「優れたアートが万人のためのものだというのなら、それは間違いなく、私たちが歩むこのストリートから始まるべきなのだ」
私がこの短いフレーズに出会ったのはおよそ10年前、ジャカルタを拠点とするアートコレクティブ、ルアンルパと活動を共にするようになった頃に遡る。その解釈は一つではないだろうが、私にとっては、アートとは本来、誰もが享受し得る共有財であるべきだと再認識させてくれるものだった。先日、アートセンターBUGを訪れた際、かつてのその言葉がふと記憶の底から響いてきたのである。


サイドエントランスから覗くBUGは、どこか遠慮がちに見える。巨大な東京駅を通り抜け、人波をかき分けて辿り着いた後なら、なおさらそう感じるはずだ。そこには、格式張ったファサードも、巨大なブロンズ彫刻もない。あるのは「BUG」の文字を切り抜いた小ぶりな木の看板で、ホワイトキューブというよりは、カフェのような佇まいが広がっている。

こうした空間のあり方は、確かな意図を感じさせるものだった。公式サイトにもあるとおり 、ここが目指しているのは、多様な人々がふらりと立ち寄り、交差できるような開かれた場所だ。展示スペースとカフェを地続きにしたのも、そうした場を生み出すための仕掛けの一つに違いない。その狙いは、見事に功を奏しているようだ。コーヒーを味わった人々が、そのまま展示に見入っている姿を何度も目にした。カフェから少し奥へ進むと、ようやく展示スペースが姿を現す。そこは親密で落ち着いた空気に満ちていながら、数点の作品をゆったりと受け入れるだけの広さも備えていた。後で気づいたことだが、正面から回れば、きちんとした看板が掲げられている。派手さはないが、ふと足を止めさせるには十分な、そんな佇まいの看板である。

私が今回ここを訪れたのは、友人の池田佳穂がキュレーションを手がけた「バグスクール2025:モーメント・スケープ」を見るためだ。インドネシアで初めて出会ってから、彼女とはもう10年以上の付き合いになる。しかし、展覧会の「公式キュレーター」としての彼女を訪ねて言葉を交わしたのは、今回が初めてかもしれない。第3回となるこのプログラムは、7名のアーティストを紹介するもので、2025年12月17日から2026年2月8日までの約40日間にわたり開催された。

池田は今回、「時間」という概念をキーワードに据えたキュレーションを展開している。会場内のバナーにもある通り 、「モーメント・スケープ」と題された本展は、時間の持つ二面性を探求する試みだ。そこで提示されたのは、「Pile of Moment(積み重なる瞬間)」と「Catch Moment(とらえる瞬間)」という二つのキーワードである。池田はこれらを通じてアーティストたちとの対話を生み出そうとし、アーティストはそれぞれ自らの解釈に引き寄せながら制作に向き合った。ただし、作家がどのキーワードに応答しているかは展示空間のどこにも明示されていない。鑑賞者がキュレーターによる分類をなぞるのではなく、自らの感覚で作品と対峙してほしい。そんな彼女の意図が透けて見える。

BUGという場は、そもそも「既存の仕組みを揺さぶること」をその存立の前提としているように思う。ソフトウェアの世界では「バグ」は修正すべきエラーであり、エンジニアはそれを消し去るために心血を注ぐのが常だ。しかし、BUGという場を支えている企業は、それとは異なる哲学を持っているように見受けられる。日本のアートシステムにおける「バグ」を修正しようとしているのか、あるいはあえて引き起こそうとしているのか——その真意は定かでは ない。ただ、池田との対話を通じて感じたのは、彼女が「バグ」を一つの突破口、すなわち社会的・商業的な規範という巨大なシステムの中に生じる「生産的なグリッチ(誤作動)」として捉えているということだ。

展示スペースそのものは、一見すると非常にコンパクトだが、作品を鑑賞するには心地よいサイズ感だ。フロアの3割ほどを占めるカフェの座席が、ガラスの壁に沿って奥まで整然と並んでいる。「ここから先がギャラリーだ」と強く主張するような仕切りはなく、むしろ空間全体が一つの空気感の中にシームレスに溶け込んでいる。カフェエリアを抜けたすぐ先に、こぢんまりとした座席のコーナーがあった。「ラーニングスペース」、会場図にはそう記されている。コーヒーを片手に誰もが自由に腰を下ろすことができ、その一角には小さな本棚が置かれている。本棚に並ぶのは、アーティストたちのインスピレーションの源に触れたい来場者のために池田やアーティスト自身が選んだ本たちだ。そのすぐ脇には「バグスクール」のコンセプトを説明するバナーが掲げられていた。たとえ限られた広さであっても、この場所こそが、彼女のキュレーションにおいて不可欠な要素なのだ。

池田と対話するなかで、彼女はこう語ってくれた。このアートプロジェクトは単に展覧会を開催するための場ではなく、人と人との関係を育むための、いわば新たな作法なのだと 。アートフェアでも美術館でも、あるいはコミュニティセンターでもない。BUGは、そのどれにも当てはまらない「曖昧なアイデンティティ」を抱えている。だが、その真価は、まさにこの曖昧さにこそ宿っているのだ。何者かであることを拒み続けることで、メインストリームのアート界を覆う無機質な商品化の波を も回避していく。作品を売買のための「モノ」として処理するのではなく、人と人との関係性を育み、動かしていく。彼女はBUGという場に、そうした新たな仕組みのあり方を思い描いたのである。

池田が「バグスクール」の根幹に据えているのは、学びとは双方向のコミュニケーションであるという確信だ。事実を上位下達で伝えるような美術館の伝統的な「教育」のあり方とは一線を画し、ここには対話を生むための親密な空気が満ちている。ここでの学びとは、単に美術史の知識を蓄えることではない。アーティストの意図に触れ、それを受け止める参加者自身の主観が揺さぶられること。それこそが、バグスクールの本質なのだ。

もしこの場所をひとつの概念的な学校に見立てるなら、参加アーティストであるAokid、芦川瑞季、KANOKO TAKAYA、坂本森海、タツルハタヤマ、八木恵梨、𠮷田勝信の7名は、いわば知覚の教室を受け持つ「教員」のような存在だ。彼らはただ作品を展示するのではなく、鑑賞者が自らの五感をひらくためのきっかけを投げかけてくる。

・Aokidは、壁一面に描き重ねられたドローイングを通じて、自らの身体の動き(ダンス)を空間に刻みつけている。その場に立つ鑑賞者は、彼が放ったエネルギーの「痕跡」を、今この空間に立ち上がる「瞬間」として受け取り、さらには緻密に設計された映像の鑑賞位置によって自らの身体を動かすよう誘われていく。
・芦川瑞季のインスタレーションでは、白いパネルが並ぶ空間を歩くにつれ、景色が刻一刻と移り変わっていく。リトグラフには、本来は相容れないはずの「断片的イメージ」が一つの画面に刷り重ねられており、鑑賞者はそれらの断片を一つの風景へと繋ぎ合わせることで、移ろう情景を自ら再構築することを余儀なくされる。

・タツルハタヤマは、「つかの間の感覚」や、現実が個人の妄想や神話へと溶け込んでいく、その境界線を掬い上げている。布の切れ端や糸によって描き出された個人的な記憶は、あるときは動植物の姿を借り、あるときは詩的な言葉となって、空間の随所に息づいている。
・八木恵梨が向き合っているのは、直感的に重要だと感じながらも、言葉で説明し尽くすことのできない「暗示めいた事柄」の解読だ。「半魚人の手」というモチーフで彼女が捉えようとしたのは、怒りやコミュニケーションの決裂といった、人の心が激しくぶつかり合う瞬間そのものである。
・KANOKO TAKAYAは、脳と身体をつなぐ「神経の通り道」に着目し、制作している。ソフトスカルプチャーを用いた作品空間にビーズクッションを配し、来場者に靴を脱いで座ってもらう。そこにあるのは、身体の「緊張を手放す」ことで、リラックスしながら触覚を通してアートを体感できるような場だ。
・坂本森海の作品は、「食べる」「殺す」「土を焼く」といった、生存に根ざした生々しい感覚に働きかける。本展で唯一、嗅覚を用いて「瞬間」を知覚させる作品でもあり、かすかに漂う煙の匂い が、彼がナガランドで行ったリサーチの記憶を呼び起こす。
・𠮷田勝信は、ビチューメンの光化学反応を利用して「光を採集」し、時の流れを可視化している。彼が会場に設置したカメラ・オブスキュラには、カフェの窓から差し込む自然光が絶えず降り注ぎ、プレートを露光し続けているのだ。

「バグスクール」の巧みさは、マーケットに対する独自の向き合い方にも見て取れる。前身のギャラリーが30年にわたり守り続けてきたチャリティの伝統を重んじながら、ここでは「参加」と「購入」という二つの関わり方を提示した。この試みが、他にはない絶妙な均衡を生んでいる。坂本森海と共にカレーを囲み、タツルハタヤマと並んでゲリラ的に敷いたマットの上を歩いた参加者は、もはや単なる「買い手」ではない。作品に込められた真意を共有する目撃者となるのだ。作家とのこうした親密な距離感は、作品そのものの魅力を一層際立たせ、その価値を確かなものへと引き上げていく。

私が訪れた日は、幸運にもタツルハタヤマによるワークショップの開催日だった。「パッチワーク絨毯deどこでもピクニック」と題されたこの企画には10名ほどの参加者が集まっており、私はその様子を少し離れた場所から見守ることにした。まずはハタヤマ自身から、これまでの活動や展示作品について簡単な説明があった。もともと油彩を学んでいた彼は、祖母との出会いを機に、テキスタイルやキルトを用いた表現へと転向したという。この変化によってハタヤマは、自身の想いをより鮮明に描き出せるようになり、他者との対話もおのずと生まれていった。

続いて、参加者はそれぞれパッチワークの制作に取り掛かる。柄の組み合わせや形、色使いに一切の制限はない。唯一のルールは、50センチ四方の正方形に収めることだけだ。用意された布地のなかには、ハタヤマの祖母のコレクションも混ざっている。何を作るか指示されるのではなく、自らと向き合い、一つひとつの決断を積み重ねていく。この工程こそが、参加者にとってもっとも難しい部分なのかもしれない。こうして出来上がったそれぞれのピースを、最後はハタヤマが繋ぎ合わせ 、1メートル×2メートルの大きなピクニックマットへと仕立て上げていく。

池田とハタヤマは、会場内での対話ではなく、外へとピクニックに出かけることを提案した。喧騒に包まれた街を歩き、5分間足を止め ては短い内省を繰り返す。そのたびに広げられるマットの上には、つかの間の「自律した空間」が立ち上がる。灰色のビルが立ち並ぶビジネス街のただなか、参加者たちは自らの嗜好や感情を託した布の上に腰を下ろし、持ち寄った生地の背景を語り合う。これは形式的なツアーなどではない。都市の効率性に対する柔らかな反逆であり、目的地に辿り着くことよりも、その過程で紡がれる「物語の糸」そのものを慈しむ時間なのだ。

道中、いくつかの場所で立ち止まったが、すれ違う人たちは明らかに「一体何をやっているんだ?」という怪訝な視線を向けていた。しかし参加者にとっては、むしろその状況が、このアクションの面白さを引き立てていた。東京駅の正面口で足を止めたときのことだ。警備員がこちらに警戒を強めているのは見て取れたが、どう対応すべきか測りかねているようでもあった。私たちが駅前広場に座り込むと、彼は明確な理由を告げることもなく移動を促し、その後も厄介ごとが起きないよう見張るために、私たちの後ろをずっとついて回ったのである。

あの状況を振り返るにつれ、ただキルト作りのワークショップを共にし、ピクニックをすることのなかに、一体どれほど豊かな「学び」の可能性が潜んでいたのかと考えずにはいられない。個々のパッチワークが縫い合わされ、一枚の大きなマットとして結実したとき。そこにあった「学び」とは、異なる視点が寄り集まることでひとつの確かな物語が形作られるという、身体的な実感そのものだった。壁に掲げられた解説文をなぞるのではなく、共に手を動かし、言葉を交わす。そうした体験を通してこそ、鑑賞者はアーティストの思考を深く「学ぶ」ことができるのだ。

先ほどのピクニックのような体験こそ、服部浩之と池田佳穂が対談で語っていた、キュレーションの多様な可能性をまさに体現している。2人は、現代のキュレーターの役割を、特権的な立場で作品を選別する存在としてではなく、人々の関係性や環境、 学び合いに働きかける「ファシリテーター」だと位置づけている。さらに服部と池田の言葉を借りれば、現代のキュレーターは「門番」や「歴史家」というよりも、むしろ「協働者」であり「環境を設計するデザイナー」なのだという。彼らは既存の制度や制約を巧みに操りながら、アーティスト、キュレーター、そして観客の間に引かれた境界線をなだらかに溶かしていく。そうして、互いに学び、体験を分かち合える「遊び場」を作り出しているのである。

池田がこのプログラムで試みているキュレーションにおいて、興味深いのが「柔らかいインフラ」という概念だ。硬直した制度上のルールをいわば「解きほぐし」、柔軟で実験的な場を切り拓いていく。池田は、既存のルールに対して声高に異を唱えるのではなく、交渉を重ね、何が可能かを一つひとつ実証することで「抜け道」を作り出していく。アートと商業の境界線に代表されるような、美術機関における厳格なゾーニングのあり方に、彼女は一石を投じようとしているのだ。

だが、この「曖昧なアイデンティティ」は、このプログラムが抱える最大の難問でもある。誰もが人々の関心を奪い合う今の時代、世の中に強いインパクトを与えるのは、決まってエッジの効いたわかりやすい看板を掲げる組織だ。「体験型アート」を謳うプログラムが星の数ほどあり、その多くが強烈なブランディングで攻勢をかけるなか、「バグスクール」もまた、それらと渡り合っていかなければならない。

危惧すべきは、バグスクールが重んじる繊細さが、より声高で派手なアートイベントの影に隠れ、かき消されてしまうことだ。完成された作品よりも「プロセス」を優先する場所であり続けるには、途方もない労力が必要になる。そこには、いわゆる「ハイアート」と日々の生活との溝を、絶えず埋め続けられるキュレーターの存在が不可欠だ。社会が「バグ」を修正して塞ごうとするなかで、あえてその「バグ」を開いたままにしておくのは、並大抵の覚悟ではない。それでも、バグスクールは日本のメインストリームのアート界と、オルタナティブな表現の現場を繋ぐ、なくてはならない架け橋になれるはずだ。この試みが根づくかどうかは、作品を「消費されるモノ」として扱うのではなく、人々の間に「関係性を育む」ものへと、価値の置き所を変えていけるかにかかっている。

日本の現代アートシーンが変容を遂げるなかで、単なる鑑賞を超えた「意味のあるつながり」を求める声は、かつてないほど高まっている。池田佳穂とBUGは、あえて「バグ」を学びと対話の拠点に据えることで、単にアートを見せるにとどまらず、アートが生きた体験として息づくような場所の青写真を描き出そうとしている。これは、私たちが都市という空間において、受動的な利用者として留まるのではなく、終わりのない物語を生きる主体的かつ「野生の」参加者として、 いかにそこに生息し得るかという実験でもある。時に、ふと街なかで道に迷い、一つの「バグ」を見つけ出すこと。自分の現在地を真に知るためには、結局のところ、それ以外に道はないのだ。



レオナルド・バルトロメウス / Leonhard Bartolomeus

1987年生まれ。山口情報芸術センター[YCAM]のキュレーター。ジャカルタ芸術大学を卒業後、2012年にルアンルパ(ruangrupa)(後にGudskul Ekosistem)に参加。近年のキュレーション・プロジェクトでは、オープン・エデュケーションとコラボレーション・プロジェクトに焦点を当てている。2017年、ジャカルタ、スマラン、スラバヤの数人のキュレーターと共に、キュレーション集団KKK(Kolektif Kurator Kampung / Urban Poor Curator)を結成。このほか、現在も海外でのインディペンデント・リサーチやコラボレーション・プロジェクトを情熱的に行っている。