千賀健史個展「まず、自分でやってみる。」の開催に寄せて、会期中の展示会場にて、文化研究者の山本浩貴さんと千賀健史さんに対談していただきました。展示の見どころや千賀さんが取り扱うテーマの特徴に加え、美術や言説を通じて社会構造に働きかけること、表現するうえでの倫理などについて交わされた対話をお届けします。


山本浩貴さん(以下、山本)

まず肩書きについて伺いたいのですが、ご自身のことは写真家と名乗っていらっしゃいますか?

千賀健史さん(以下、千賀)

はい、写真家です。ただ最近は、ビジュアルアーティストという呼び方も並列しています。鑑賞者の方が、「これは写真作品だ」という意識を強く持ちすぎると、枠が固定化されてしまうので、 もう少し自由に見てもらえるよう肩書きを少し曖昧にしています。

山本

そうなんですね。展示を拝見し、作品集の方はストレートな写真、インスタレーション作品は広い意味でのビジュアルアートという印象を受けました。千賀さんは写真というメディアにとどまって制作されていらっしゃると同時に、写真が持つ可能性をもっと拡張したいという意識をお持ちのように感じられます。写真というものにこだわりはお持ちですか?

千賀

そうですね。例えば、これまでに来場された方から、「あの絵(《まず、自分でやってみる。》シリーズ)が好きだったよ」と言ってもらったことが何度かありました。僕はそうやって写真が誤読されることを意識し、あえてF6、F8(キャンバスやパネルのサイズ規格)と書かれた木のパネルを使ったり、テクスチャーをもこもこさせたりしています。そういう記号から「これは写真じゃない」という認知を誘いつつ、「でも写真なんです」という作品をつくりました。
写真というメディアを使いつつ、それを絵画のように見せることは、一つの擬態(=なりすまし)なんです。また、僕らが何かのイメージを見るときには、表面的な記号を読み取って、自分が納得する物語を構築することで不安定な認識を安定させることがあります。それは特殊詐欺で加害者がつく嘘や、僕らがいわゆる“悪い人”を見るときにもやっていることなので、その構造を重ねました。

社会的なテーマを取り扱う上での、美しさと倫理のバランス

山本

以前から芸術において社会的な事象を扱うことに関心をお持ちだったんですか?

千賀

そうですね。そもそも僕は宇宙やテクノロジーといった科学的なことが大好きで、科学の未知を探究しようと大学に進学しました。ただ徐々に、未知なものはすぐ隣にいる人の中にあるんだと感じるようになり、関心もシフトしました。自分が知らなかったものを抱えている人たちとコミュニケーションを取り続けると、実はそこから地続きである自分や社会が見えてきます。だからこれまでも、とっかかりはパーソナルなことであっても、最終的には社会全体へ繋がる作品をつくってきました。

山本

さまざまな社会的事象があるなかで、この特殊詐欺は個々人のいろんな事情も背景にあり、「人間ドラマ」のような側面もあって、とりわけ「面白い」テーマですよね。展覧会タイトルも興味深いです。アーティストステートメントにも書かれている通り、“自分でやる”ということは、基本的にはネオリベラリズムな自助や自己責任という話に繋がりますよね。また、“自分でやる”ということを学問的な領域で解釈すると、フィールドワークに自分で行く、実際の展覧会を見に行く、という体験主義に当たります。今回はそういった捉え方とは、少し異なるかたちでやっていることに興味を惹かれました。自分がある対象になりきってみたり、他者と関わってみたりすることは、ケアという考え方にも関わってくる気がします。自助努力や経験主義とは違った他者性が感じられるタイトルです。

千賀

嬉しい感想をありがとうございます。タイトルに関しては、コロナ禍による特殊詐欺を取り巻く状況の変化を反映しています。正規の職に就いている方々も闇バイトにコミットし始め、身近なところからも、 「生活が苦しすぎるから闇バイトに手を出した」とか、「闇バイトでもやんない生きてけねえよ」とSNSに投稿する人が出てきました。その根底には、「自分でなんとかしなきゃ」とか「ギリギリまで自分でやらないと社会のお荷物になってしまう」といった負い目が付きまとっていると感じました。それを受けて、この言葉をタイトルにしました。あとは特殊詐欺というテーマを前面に出すと、展示会場に入ってくる人をある種ふるいにかけることになり、興味のある人しか来ない状況を生み出してしまいます。それを避けたかったので、気軽で楽しそうな参加型企画だと思わせる語感を大切にしました。

山本

さまざまな社会条件によって、それぞれの人が、努力できる/できないということが規定されるはずです。ところが、それが全て自分の能力や努力に還元されてしまう現状があることも事実です。もちろん犯罪行為自体は擁護できませんが、その状況や意味を反転させてみることは、学術的に見ても面白いですね。一方で、千賀さんが表現するなかで悩まれているだろうな、と感じたことは、“意図的であるという姿勢をどこまで出すのか”ということです。
例えば、シンディ・シャーマンの90年代の広告作品や澤田知子さんのセルフ・ポートレート作品でも、なりきっているものと自分の属性が近い距離にあるからこそ、それが批評性を持ってなされた芸術行為であるという意図をどのくらい鑑賞者に受け取ってもらえるのか、という難しさがあるように感じます。シャーマンも澤田さんも、そのギリギリのラインを慎重に狙っているのではないでしょうか。千賀さんもきっと、自分が取り込まれてしまわないギリギリを考えながら展示を作られているでしょうし、僕自身も文章を書く際、そのギリギリにチャレンジしているので、共感した面もあります。
また事前に千賀さんのインタビューを読んだ際、ピュリッツアー賞を取ったケビン・カーターのことを思い出しました。ケビンは南アフリカのスーダンで、ハゲワシに狙われている女児の写真を撮って有名になりましたが、その後、世間からバッシングを受けて自死しました。インパクトのある、「印象的な」写真を撮影するために、その子を助けることなく、「良い」構図を待っていたという世間のバッシングです。僕はこの話をアルフレド・ジャーの作品で知りましたが、この倫理と美学の対立に難しさを感じています。しかも写真は絵画よりも本物を見せているように受け取られますし、“社会問題そのもの”と“社会問題の表象”の差がわかりにくいですよね。そこに写真の可能性や難しさがあると思いますが、千賀さんはその部分を深く考えたうえで、写真にとどまる部分を常に残されているのではないでしょうか。
ちなみに千賀さんは、このように写真で社会的なテーマを取り扱う際の美学的な要素と倫理のバランスについてはどう考えられていますか?

千賀

このトピックを扱うにあたって、美的な面を過剰に追求すると、実際にやりたかったことからずれてしまうと考えました。もちろん人の目を引くために、美しさという要素は必要ですが、そのバランスを誤ってしまうと違和感が残らず、「美しいね」という感想で終わってしまいます。それは鑑賞者がその先を想像するために必要な不安定さを奪ってしまうことになるので、倫理的な面も考えながら、 ただ「美しいね」と消化されてしまわないバランスを意識しました。

山本

そのラインをご自身なりによく考えて、悩みながら制作し、全体も構成されている印象を受けました。みんながみんな社会的なテーマを取り扱う必要はないと思いますが、僕自身はその可能性について関心があります。千賀さんの作品は、単純に社会的なものを扱っているわけではないし、かといって外と切り離されたものでもないという面でも、東京のど真ん中にあるBUGでやる意味が強くあると感じました。ちなみにBUGのミッションやステートメントはあるんですか?

BUGスタッフ

ミッションは、「アーティストやアートワーカーはもちろん、社会人や学生、外国の方など、多様な来館者の方々にとっても新しい視点や人、物事に出会える開かれた場所となるよう努める」、「展覧会やイベントの開催において協働する、アーティストやアートワーカーの皆さんと信頼関係を構築し、全力で挑戦できる場と機会を創る」の二点です。またステートメントには、「この世界に、バグを。」という言葉を掲げていて、来場者の方に違和感や、ある種の不快さを受け取ってほしいと考えています。それはBUGという名称自体に込めた意味でもあります。

山本

なるほど。この展示は違和感からスタートして、一つのわかりやすい結論の提示ではなくオープンエンドになっていることで、違和感が残ったまま終わりますよね。写真に真実が写っていると認識しがちな受け手を戸惑わせるというか、 意図的に混沌をつくり出している。それはBUGの目指していることにもすごくマッチしてると感じました。

わからないまま残すことと決断することの境界

山本

ちなみに先日トークイベントに登壇された永井玲衣さんとは、どのようなお話をされたのですか?

千賀

大きく2つ、「想像力とは何か」と 「自分ごととはどういうことか」というトピックが挙がりました。

BUGスタッフ

トークの初めの方で永井さんから千賀さんに、「千賀さんはこの展示をつくった中で、何がわからなかったですか?」と投げかけられた問いが印象的でした。そこから千賀さんは、何がわかった/わからなかったんだろうと話が広がって。

千賀

この作品をつくる前が一番わかっていたと思うんですよね。 でも、調べて、演じて、制作を進めるほど、わからなくなってしまった。

山本

それに関して一つ質問させてください。僕も悩んでることですが、わからないまま残しておくべきことと、それでもなお決断しなきゃいけないことの境界はどうやって決めますか?わからないなりに文章を書く者としての責任があるとき、100パーセントの悪と100パーセントの善が戦っているわけではないことが明白であっても、いずれかの側を表明する必要があるという場面に出くわします。一方で、決断主義が持つ問題も体験してきたので、どちらかに決めることがいいのか、非常に悩んでしまいます。個人的には、美術の持つ力、わかっていると思っていたものが結局わからなくなっていく過程にすごく魅力を感じています。ただ、自分が文章を書く際に提示すべきことや、ジャッジメントを提示することが難しいと感じていて。

千賀

非常に難しいですよね。僕の場合は展示会場において、あまりにも自分の決断や考えを強く出しすぎると、この場所でそれを聞いたことによる魔法のような、「それが答えかもしれない」って、考える間もなく受け入れてしまう可能性があると思っています。だからこそ僕は結論は提示せず、そこまでの過程や「見てきたものはこれです」という部分を見せるようにしています。もちろん個人的には、何かしらのトピックに対して決断したり、態度を決めて行動してはいますが。

山本

それはよくわかります。制作した作品や書いた論考と、自分自身の行動を切り離すということは簡単ではない部分を示しつつ、受け手側に“何らかの決断を促す”という方法もあるのかもしれない。僕は文化研究者を自分の一部としてやっていた面がありますが、 最近は研究者としての責任と自分を切り離すことで、初めて仕事として成り立つのかもしれないと思い始めています。作品の中でもオープンエンドを残しつつ、受け手それぞれが何らかの決断ができるということもあるかもしれないですね。一方で僕自身は、文章が何らかの決断を下す一助になってほしいと思う部分もやはりあるので、オープンエンドにしつつ、決断も促すことができるといいのかな。難しいことだけれど、できないことではない気もする。決断の方向性は示さないけれど、何かを決断しなくてはいけないのかもしれないということを示すとか。

千賀

僕はそれをすごろく作品の《Citcuit of life》でやった気がしています。

山本

そうかもしれないですね。参加型の作品によって、自分なりの行動や考え方、決断を形成できると思うので、これがあることはこの展示にとって重要なのかもしれない。

自分の特権性を理解し、不均衡な社会構造に向き合う

山本

ちなみにもう1つのトピックは「自分ごととして考えるとはどういうことか」でしたよね。

千賀

はい。ちょうど先日、そのトピックに当てはまる話を聞きました。医療職の方が見に来てくださったのですが、その方によると、「自分たちのミッションも自分ごととして捉えてもらうことだ」と。「タバコを吸うのは体に良くないですよ」とどれだけ言っても伝わらない。「そこをどうしたら、自分が直面している問題だって考えてもらえるのか悩んでいます」とおっしゃっていました。その方はすごろくを体験されて、「これは私たちがやりたいことにも繋がるかもしれない。自分たちもやってみます。」と話してくださったけれど、僕自身その話を聞いて、改めて当事者として考えることの難しさを感じました。

山本

この話は、どの領域でどんな仕事をしている人にとっても関わる共通したミッションですよね。領域によっても定義が異なりますが、僕自身、特に東アジアの歴史問題と美術を扱っている立場からすると、罪の意識を抱くのではなく、それを責任に変換していくということが重要だと考えています。例えば、僕は戦後に生まれたので、植民地支配やアジア圏で行われた残虐行為に直接の責任はない。でも少なくともその歴史を基に形成されて、レイシズムや植民地問題の残っている構造のなかで何らかの特権を得て生きている以上、それを主体的に変革していく責任は生じるはずなんです。ジェンダーにおいても、男性として生まれることを僕自身は選んでいないですし、そこに責任はないですよね。一方で、現状として性差に基づく不平等が残っていることをあらゆる人が一緒に考えていく必要はある。それをどういう風に罪悪感や後ろめたさではなく、ポジティブな責任感や主体性に変革していけるかということを考えています。そして、それをすることも言説や美術の役割だと思っていて、ある問題と自分との関わり方、どのような存在がどういったものを歴史的に踏みつけてきたのかということを、前向きに示していきたいです。
そういった面でも千賀さんの作品は、社会問題に対して、千賀さん自身が演じながらその繋がりを考えるもので、受け手側もそのネットワークと結節点を持ち、入っていけるようになっていました。作品集も含め、チャンネルの多い展示によって、何かを考えていくきっかけもたくさん用意されていますよね。

千賀

この間、すごろくを体験したお客さんが、「自分はすごく恵まれている。だからこそ罪悪感が強くあって、自分が得たものを手放す必要を感じる。」とおっしゃられました。でも僕からは、「手放さなくていいのでは。持っている人間として生まれてきたのであれば、社会に存在する不均衡をなくすために、持っているものを使えばいいんじゃないか。」とお話しました。僕自身も恵まれた身だと感じていて、でもだからといって持っているものをポンって捨ててしまうのは逆に無責任ですし、いまある不均衡の一部として責任を持ちたいな、と。

山本

僕もそう思います。そこが自己責任論に傾くと、「それを得たのは自分のおかげだから、それを自分のために使う。」ことになってしまう。もちろん自分のために使う部分があってもいいですが、自分のため”だけ”に使う人が増えてくると、構造を変えることができないですよね。自分が得た何らかの特権を、構造的に特権を奪われてきた人のために部分的にでも使える人が増えてきたら、システム自体が変わっていくと思っています。

千賀

そうですね。そう考えると、希望みたいなものはすぐそこにあるのかなって思えてきます。



山本浩貴
山本浩貴 Hiroki Yamamoto
文化研究者

1986年千葉県生まれ。実践女子大学文学部美学美術史学科准教授。一橋大学社会学部卒業後、ロンドン芸術大学にて修士号・博士号取得。2013~2018年、ロンドン芸術大学トランスナショナルアート研究センター博士研究員。韓国・光州のアジアカルチャーセンター研究員、香港理工大学ポストドクトラルフェロー、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教、金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科芸術学専攻講師を経て、2024年より現職。著書に『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社 、2019)、『トランスナショナルなアジアにおけるメディアと文化 発散と収束』(共著、ラトガース大学出版、2020)、『レイシズムを考える』(共著、共和国、2021)、『ポスト人新世の芸術』(美術出版社、2022)、『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』(共編著、月曜社、2023年)など。