千賀健史個展「まず、自分でやってみる。」の展示会場に、写真家の金川晋吾さんをお招きし、千賀さんにインタビューを行なっていただきました。展示作品の制作プロセスやメディウムの特性、撮影者としての葛藤など、金川さん自身も写真家であるからこその視点で展開されたインタビューです。
写真家と呼ばれる人がやっていることが、写真を撮ってきてそれを他人に見せることだとしたら、千賀さんの作品は撮ることと見せることのあいだにかなりいろんなことをしている、そのあいだに自分の手をかなり介入させています。千賀さんは写真を撮るということだけでなく、写真をどんなふうに使うか、写真というイメージにいかに介入するかということにかなり重きを置いていますよね。写真は表現のためのメディウムであると同時に写真自体が一つのメタファーであり、写真というものの性質を通して何かを浮かび上がらせようとしているように見えます。
写真を撮って見せるだけではないこと、それ以外のことをやり始めたきっかけを教えてもらえますか?
インドの貧困を取り上げた作品までは、 いわゆるオーセンティックなドキュメンタリーを撮っていて、どちらかって言うと、「この写真よくないですか。見てください」っていう気持ちが強かったんですよ。でもそれをしてる時に、僕の友人がカーストの問題だったり貧困だったりで苦しんでいるのに、「いい写真撮れた! 人に見てほしい」と思ってる自分が「すごい嫌だな」と思えてきて、「そもそも自分は何がしたかったんだろう」と考えました。もちろん写真は撮りたいんだけど、それ以上にこのプロジェクトを届けたいっていうのが第一にあったはずで、自分の中で少しずれを感じたんですよね。
写真は見てほしいんだけどそれ以上に、「ここで何をやりたいのか」っていうところをもっと届けたいと思いました。例えばプロセスにもメッセージ性を込めたり、写真ではないものを使ったりすることで、ただ写真を見る以上のところに広げられないかなとか。その可能性を色々と考えるようになって、どんどん表現が広がっていきました。
なるほど。「いい写真を撮りたい。見せたい」という欲望と、「何かをちゃんと表現したい。考えてることを形にしたい」っていうことの乖離についてですよね。これは考えるのがむずかしいけれども、だからこそすごく考えたい問題です。写真が手段ではなくて目的そのもの、あるいは欲望の対象になっていく。そうなってくるといい写真を撮ること、いいイメージを手に入れることが目的となり、写っている対象はむしろ二の次になってしまうということが起こってしまう。
今回の展覧会では千賀さんは写真をさまざまなかたちで使っていると思うのですが、この展示空間のなかにはこの作品の写真集も展示されていて、観客は自由に読むことができるようになっています。写真集も展示の一部だと思うんですが、この写真集はこれだけで独立していますよね。写真集と展示とでは印象がけっこう異なっていて、写真集のほうが展示よりも写真を撮ることや写真がもつ記録性に関心が向けられているように思いました。
そうですね。写真集はそれこそ記録集というか、詐欺にまつわる加害者だったり、被害者だったり、いろんな人を演じながら撮ってるんですね。例えば、受け子がアポ電したエリアを警察が発表してるんですよ。だからそこに行って、自分はいま受け子であると思いながら、ハーフカメラを持っていって撮るとか、警察の報道をチェックして、同じアイテムを全部買い揃えて同じ場所をレンタルして、セットして、電話をするんです。実際にはかけないんだけど、「もしもし。ちょっといまは喉風邪ひいてて、喉が痛いんだ」みたいな。そういう一連を演じて撮っていました。
やばいですね(笑)。それは1人でやったんですか?
はい。ひたすら電話をし続け、かけ終わったら横に移動して、横の椅子で記録をチェックしたりとか、名簿に線引いたりとかして。その隣ではホワイトボードに架電目標件数を書いて、「お前ら全然足りてねえぞ!」って言ってみたり。ブツブツ言いながら、ペンで机を叩いたり。僕は演技でやってるんですけど、本当の加害者とどれぐらい違うかって考えると、その痕跡はほとんど変わらないのではないかと。実際にやってた人から話を聞いたりする中で、 結局そんなに大差ない発想の中でマニュアルを考えたりしていて、本当と嘘の差みたいなのが、こういうふうに記録として残って、そのプロセスが見えない状況で出てきたら、鑑賞者にとっては一体どれぐらい違うんだろうと。その辺が、写真の記録性の面白いところでもあると思っていて、そういった面で「人を騙してみよう」、「写真が本当かどうかわからない」みたいな気持ちがあります。
なるほど。そっかそっか。やっぱり千賀さんの中には写真への不信感みたいなものがありますか?
鑑賞行為に対してなのかな。良くも悪くも、写真が視覚的に魅力的であればその印象や含まれる記号、そういうところから勝手に物語が生まれて、本来の記録性以上の物語性が生まれてきてしまうんだと思います。
特殊詐欺でも、ちょっとしたキーワードを言うだけで、例えば「これは息子だ」って思った瞬間にいろんな想像が始まる。そんな風に物語が生まれる様とオーバーラップする感じがして、断片的な記録と、イメージの要素で人の中に物語を作り上げていくことを写真集ではしようとしています。一方で展示は、物語を作るというよりは、写真集で作り上げた鑑賞の体験とか、 自分がいかにイメージを記号的に理解して物語を作り上げていくとか、加害者の中で生まれる言い訳の心理とか、そういう脳の反応みたいな部分を体感する場にしようと考えていました。なので、同じトピックだけれど、やっぱり本と展示では明確に違うことをしている。
写真を使ってある物語のようなものを構築して提示するっていうこと自体に、やっぱり何か詐欺師的なところがあるんじゃないのかっていうことですよね。
作者と観賞者の共犯関係で生まれてくる写真っていうのが、よくも悪くも、と思っています。でも、やっぱ多くの人は気にせず消化しているような気がして、勿論それも一つの楽しみ方なんですが、これは詐欺の中で利用される手法と一緒だなと。 やっぱ詐欺師の人たちは写真めっちゃ使うんですよ。人を騙す時にスーツを着ている写真をIDカードの上に貼ったら、もうそういう人だと認識される。
なるほど。
だからそういう意味では、写真は詐欺の中で使われる要素がすごくある。そういう詐欺的な部分でも、写真が持ってる鑑賞者に与える信頼感というか、記録性で遊びたいと思っているんです。
千賀さんの言う「写真は詐欺的なものだ」っていうのは、見せる側が見る側を一方的に騙しているということではなくて、両者が共犯関係にあるっていうことなんですよね。僕はこれまではそのことをなんとなく一方的なイメージで理解していたので、そこにはっとさせられました。
僕は先日、一緒に暮らしている人たちや自分自身を撮った作品を展示していたのですが、そこに写っている関係性が「すごくいい」と言ってくれる人たちが何人かいました。そう言ってもらえるのはうれしいし、そう思ってもらうために見せているんですが、それでもやっぱりそういう反応に対して、つまり観客が写真をどうしても「いいもの」として見てしまうことに対して、申し訳なさのようなものを感じつつ、なんとも言えないわだかまりのようなものも感じました。
そうですよね。きっと見てる人にとっては、すごくいい体験になってることは間違いないんですけど、それが自分の想定を超えて、より素敵なものになることが起きるのは、現実を扱ってるからなのかすごくもどかしいなって思います。
今回、スキャナで撮っている作品もあって、そうすることでそういった情緒の入る余地を減らせるんじゃないかなっていうのと、モノを表面的に捉えていくスキャナだと写真のように奥行きが生まれなくって、鑑賞体験そのものも奥行きが失われるのかな? と考えています。ちょっとした違和感を作れるんじゃないかなと思いました。
むしろ鑑賞経験の奥行きを失わせるためにやっているっていうのはすごくおもしろいですね。
入口付近の作品には、いわゆる普通に撮った女性の写真があります。多分見る人は「いい写真だね」っていうようなショットで、情緒的な物語を持って見てしまうみたいなことがやっぱりあるんじゃないかな。でも、他のスキャンした作品などはそうやって見ていくと、ある種つまらない感じだったりするんだけど、この記号的な要素を繋いで物語を作るっていうようなことを、違う方向からやりたいと思ったんです。
とはいえ、ストレートフォトもスキャンしたイメージも写真という括りで僕は作っているし、《まず、自分でやってみる》シリーズのように写真を溶かして作った作品も写真なんですよね。でも、見てる人は「絵画かな?」なんて思うかもしれない。
いわゆる社会的な問題は他にもあるけども、千賀さんが特殊詐欺を扱おうと思ったのは、このテーマに何か写真的なものを感じたからですか?
特に特殊詐欺は今の社会がすごく映ってると思っています。僕自身、犯罪ってどこか遠いところにあるって思ってたんですよね。実際、 特殊詐欺も歴史を遡るといわゆる悪い人がやってたんですけど、数年前からは、普通に高校生とか大学生、会社員、役所の人、保育士さんとか、隣人が関係するようになっていて。そうなっている背景には、やっぱり社会的な事情がすごく含まれてると思うんですよね。 それに対して、「こういう悪いことするやつは根っから悪いやつなんだ」とか、「自分は耐えてるのに、そういうことをする人は根本が私とは違うんだ」みたいに裁く人も多い。この自己責任論真っ盛りで、弱者は弱者といった排除社会がこの問題には映ってんのかな、と。こういう状況そのものがすごく現代的だと思っています。
そして、写真は根本的にはそこにあるものしか映らないわけじゃないですか。もちろんAIだ、フォトショップだってあるけれども。そうは言っても、やっぱり写真を見た時に僕らは「これは現実」って見ると思うんですが、実際はめちゃくちゃ改変してたりする。そういう意味でも詐欺を考える際に写真表現を用いることは合っているなと思いました。
千賀さんは写真っていうメディウムへの関心もありつつも、特殊詐欺が蔓延している現代の社会状況への関心がしっかりとありますよね。だからこそなのか、千賀さんの作品からはドキュメンタリー写真的なおもしろさが感じられると思います。
誤解を恐れずに言うと、社会が一番面白い。人が面白いとも言えるんですけど、やっぱりそこに自分の関心はすごく向いています。それと同時に、作品としての美的な部分の面白さであったり、写真の哲学的な部分の面白さだったりをなんとかコネコネできたら、どちらの方向からでも、より多くの議論がうまれないかな、と。
さっき聞いてて、面白いなと思ったのは特殊詐欺を再現することについて。演じるっていうことは前からやってるんですか?
これが初です。演技への興味はあったんですけどね。詐欺をテーマにする際、外に与えてしまう影響や、その被写体が食らってしまう影響を考えると、実際の加害者や被害者を撮ることはできないと思っていて、「じゃあ自分が演じればいいんだ、なりすまし詐欺だし!」という考えに自然と至りました。誰に見られるわけでもないから、楽しく演じてました。
演じることと、被写体を配置して写真を作るっていうことは、繋がるところがあったということですね。
そうですね。この時はいわゆる多重人格状態みたいな感じで、演じている時は撮影のことなんてもちろん考えてないわけで、わーってやった後に写真家の自分が降りてきて発見するみたいな感じでした。
千賀さんは、手を加えたものがフィクションで、手を加えずにそのままあるのが現実というような二項対立で写真のことを考えていないのだろうな、と聞いていて思いました。
そうですね。イメージはもはや手を加えるのが当たり前になっているし、見る側になった時その区別はどこまで重要かなと。もちろん写真に本物だけが持つ何かっていうのが写ることはあると思うし、僕はそれを信じてますけど、そうは言っても、真実と虚構の差が限りなくゼロになることもある。そこを追究することも面白いです。
1981 年京都府生まれ。写真家。神戸大学卒業。東京藝術大学大学院博士後期課程修了。三木淳賞、さがみはら写真新人奨励賞受賞。 主な写真集に『father』(青幻舎、2016)、『長い間』(ナナルイ、2023)、著書に『いなくなっていない父』(晶文社、2023)など。近年の主な展覧会、2022年「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館など。長崎のカトリック文化や平和祈念像、自身の信仰を扱った『祈り/長崎(仮)』(書肆九十九)を2024年春に刊行予定。
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