さまざまな想像を喚起する、とても不思議なタイトルだ。第1回BUG Art Awardでグランプリを受賞したアーティスト・向井ひかりの個展に冠されたタイトルは、「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ(The Names on the Beach)」──つまり、「砂の上に書かれた名前」であった。このタイトルから最初に連想したのは、いまなお根強い影響力のあるミシェル・フーコー著『言葉と物』(1966)の幕引きを飾るよく知られた文章であった。いわく、「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。(…)賭けてもいい、人間は波うちぎわの砂の表情のように消滅するだろう」(ミシェル・フーコー『言葉と物〈新装版〉──人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、2020年、455頁)。

ここでは終点としての「人間の終焉」が宣言されているが、その起点である「人間の誕生」はどこに位置づけられるのか。フーコーによれば、「人間」という概念は近代的なエピステーメー(認識の枠組み)の成立と同時に19世紀の初めに出現した。それ以前、すなわち17世紀から18世紀の終わりまで──彼が「古典主義時代」と呼ぶ時代区分──の思考は「事物の存在を表象の外に想定することがなかった」(慎改康之『フーコーの言説──〈自分自身〉であり続けないために』筑摩書房、2019年、122頁)。ゆえに、その時期には事物と表象の連関が問題となることはなかった。慎改康之が説明するように、「人間」は表象を自らのために構成する主体として近代になって登場した。

精神分析や文化人類学の発達を背景として人間の非合理性や非主体性という暗がりに光が投じられるにつれ、「人間の終焉」が到来するとフーコーは考えた。その後の社会構築主義の隆盛などを鑑みると、ふたつの点についてフーコーは見落としていたように思われる。ひとつ目の点は、ぼくたちが予想するよりも「人間」なる存在は頑迷であったということだ。社会構築主義のブームが一段落すると、(少なくとも部分的には)ふたたび「人間」が議論の中心へと回帰してきた。マルクス・ガブリエルらの「新しい実在論」は、その顕著なメルクマールとして把握されうる。(フーコーがあまり考えていなかった)もうひとつの点は、ここから派生的に生まれる。

それは「人間」という概念は誕生して終焉する直線的な歴史観の上にあるのではなく、いつも生成と消滅を繰り返す反復物なのではないかという点である。哲学については門外漢であり、これ以上の深入りは避ける。だが、少なくとも美術史や芸術論の分野における「作者」の概念についてはそのようなことが確実に言える。つまり、ロラン・バルトが1967年にテクストにおける「作者の死」(とそれを贖うものとしての「読者の誕生」)を宣告──「あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある」(ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、89頁)──してもなお、ある作品を創造する特権的な主体としての作者性(オーサーシップ)への執着は何度でも蘇生してきた。

前置きが長く、かつ煩雑になってしまった。その個展のタイトルから連想して、ぼくが向井の芸術実践と接続して論じたい事象はここから始まる。「人間」や「作者」といった概念と同じく、芸術や文芸における「作品」という概念も執拗な批判的審問に晒されてきた。佐々木健一が指摘するとおり、「作品は、存在のカテゴリーとして基本的なものでありながら、思想的に主題として論じられることは、ほとんどなかった。それが問題となったのは、ごく近年のことであり、しかもそれは、作品概念への攻撃によって顕在化してきた」(佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、151頁)。「作品」の概念は繰り返し不安定化され、その反動として何度も復権されてきた。

例えば、マルセル・デュシャンの一連の「レディ・メイド」は工業的な既製品を芸術鑑賞の対象として呈示する。鑑賞者の眼前に作品ならざるもの=「作らない作品」としてのオブジェを突きつけることで、デュシャンは自明の前提とされてきた作品のあり方に対して問いを投げかけた。もうひとつの例として、ジョン・ケージらが提起したパフォーマンスとしての作品が挙げられる。音楽の文脈においてケージは演奏=上演(パフォーマンス)が実質的には常に異なるものであることを強調し、それは作品の概念が自己同一的な固定化された存在であると考えられていたことに対する疑義として機能した。こうした一連の流れを受けて、著書『開かれた作品』(1962)のなかでウンベルト・エーコは次のように極限している。

あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を甦らせる(…)(ウンベルト・エーコ『開かれた作品』篠原資明+和田忠彦訳、青土社、2011年、66頁)

バルトと同様、エーコは物的対象としての作品に対して読解の相関者として機能する解釈者の役割を重視している。ここにある「実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列」という表現は、まさに向井の「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」展における作品の数々を叙述するために適切であるように思われる。

「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」は、合計すると17にも至る大小様々な作品から構成されている。作家自身が日常のなかで体験したこと、あるいはふとした時に想起した記憶の断片からこれらの作品は制作された。とはいえ、作品が依拠するそうした日常や記憶は、けっして時系列的に並んでいるわけではない。また、なんらかのわかりやすいカテゴリーに沿って分類されているわけでもない。ゆえにそれらは「実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列」のなかで緩やかにつながっているようにも思えるし、その反対にどれも孤立してバラバラに点在しているようにも思える。まさしく、エーコが言うところの「開かれた」作品群となっている。

そのために向井の作品は、それ自体が展覧会のタイトルと同じく「砂の上に書かれた名前」のように儚くエフェメラルな存在だ。寄せては返す波の動きに合わせて砂の上に書かれた名前が消え、また誰かがそこに別の名を刻むことが絶え間なく繰り返される。向井の作品は、そのような生成と消滅の無限の反復において切り取られた一瞬のスナップショットのようだ。あたかも「作品」という概念が歴史的に消えては生まれまた消えては生まれるように、向井の作品も飽くことなく明滅を繰り返している──ぼくは「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」を鑑賞して、そのような印象を受けた。それらは一見すると静的であるように見えて、いつも微細な振動の動的なダイナミズムに身を委ねている。

「ザ・ネイムズ・オン・ザ・ビーチ」のなかから、向井の芸術実践を興味深い仕方で枠づけると思われるひとつの作品に言及したい。《ミニカー》(2024)と題された、およそ2分の映像作品である。作家の言葉を借りれば、本作は「バイトの休憩室から見た景色。行き交う車がルールを正確に守ることにより、おのずと動きを制御されていく様子」を記録したシンプルな映像だ。ここで向井が無意識的にせよ捉えている事象を、その芸術実践との関わりから考察してみたい。ここで対象となっているのは、やや小難しい言い方をすれば交通と呼ばれる現象の生成である。信号や車、あるいは道路標識が象徴する規則や法律では規定されていない暗黙の了解……それらの多種多様な要素が複雑に絡み合って、いわゆる「交通」が成立している。

アクターネットワーク理論(Actor Network Theory, ANT)は、こうした錯綜した世界の様相を理論的に説明しようとするものだ。ANTは「人間だけでなく、人間以外の諸存在もまた一人前のアクターとして認めるという主張」で知られ、「いわば人間以外のさまざまな要素が果たす役割を十全に把握しようとする一連の実験的な記述の集積」だと理解されている(栗原亘編『アクターネットワーク理論入門──「モノ」であふれる世界の記述法』ナカニシヤ出版、2022年、1–2頁)。「ANTと経済」と題された論考で金信行はスーパーマーケットでの肉や魚の買い物を例に取り、そうした購買行為に「見本市のように商品を置くための台や棚、商品の鮮度に応じて値引き率を決める価格設定のシステム、購買意欲を促進するようなマーケティング知識や経営戦略」など多数の有形無形の非人間的要素が与える影響を組み込んで分析することにANTの経済学の領域における利点を発見している(前掲書、103頁)。こうした「経済」の説明は、先ほどの「交通」と似ている部分がある。

ANTのレンズを通せば、世界は日常にある多彩なアクターの生まれては消える連関から構成されていることがわかる。向井の作品を、こうした世界に生まれては消える結び目(ノード)のようなものだと考えてみると面白い。彼女の作品は、きわめて「脆弱な」存在だ。だが、その特異な脆弱さゆえの強度(「インテンシティ」ではなく、「レジリエンス」としての強度)を備えている。このことは、ぼくに以前住んでいた金沢で聞いた話を想起させる。積雪の多い金沢で無事に冬を越えてサバイブする木々は折れないように耐えようとするのではなく、むしろ積もった雪の重さに応じて柔軟に曲がるのだそうだ。向井の作品は日常の素材や記憶から構成されるため、そのひとつひとつに即時的なインパクトを感じない鑑賞者もいるかもしれない。だが、彼女の作品は鑑賞者の思考にしっかりと根を張る。そして、ふとした日常のなかで何度でも(ゾンビのように)蘇る。

そのような向井の作品を、結び目(ノード)としての作品と呼びたい。そこにはどこか記憶に残る、言いようのない忘れがたさが伴っている。その柔軟であるがゆえに限りない広がりのある強度を持つ向井の作品は、いつも明滅を繰り返す。小さな、しかし存在感のある光を放つ星のような存在に思われる。それらは作者としての向井自身はおろか、人間という尺度さえ超越してサバイブするものかもしれない。星の「寿命」が、しばしば個体としての人間よりも長いように。今は多くの現代アーティストたちが、地球的(グローバル)という規模を獲得するために躍起になっている。だが向井の結び目(ノード)としての作品はその規模を軽々と越境しながら、惑星的(プラネタリー)な性質すら帯びつつあるように思われる。



山本浩貴
山本浩貴 Hiroki YAMAMOTO
文化研究者

1986年千葉県生まれ。実践女子大学文学部美学美術史学科准教授。一橋大学社会学部卒業後、ロンドン芸術大学にて修士号・博士号取得。2013~2018年、ロンドン芸術大学トランスナショナルアート研究センター博士研究員。韓国・光州のアジアカルチャーセンター研究員、香港理工大学ポストドクトラルフェロー、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教、金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科芸術学専攻講師を経て、2024年より現職。著書に『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社 、2019)、『トランスナショナルなアジアにおけるメディアと文化 発散と収束』(共著、ラトガース大学出版、2020)、『レイシズムを考える』(共著、共和国、2021)、『ポスト人新世の芸術』(美術出版社、2022)、『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』(共編著、月曜社、2023年)など。