東京駅周辺の変身が急ぎ足だ。街全体にアートフルな意匠があふれて、まるで巨大な、つねに制作中のアート作品のなかを、人々がうごめいているかのようにも思える。あらゆるものが、きっちりとデザインされ、その現代風の美しさが、私たちの暮らしを取り押さえているかのようでもある。
芸術家にとってこれは、好ましい環境なのか、それとも、息も詰まる状況なのか。芸術作品は、何かしらの形で日常から切り出され、枠づけられて「芸術」として存在する。逆にいうと、適切な枠組みを用意すれば、なんだってアートになってしまう。ジョン・ケージが4分33秒の沈黙を舞台に乗せてそのことを示したのは、もう70年も前のこと。デュシャンの展示した男性用小便器からはもう100年以上だ。芸術の行為はつねに危うさのなかにある。
八重洲口を出ると南に隣接したそこは「グラントウキョウサウスタワー」という高層ビルである。そのガラス張りの一階はカフェで、舗道から中の様子が透けて見える。カフェではあっても同時にそこは「BUG」という名のアートセンターであって、その日は雨宮庸介の個展が開かれていた。
それは「開かれた」展示だった。つまり、閉ざされても囲い込まれてもいなかった。私たちが思い描く展覧会というものはふつう、壁に囲われた展示室で、額に縁取られた絵画や、台の上の設置されたオブジェと対面する、というかたちをとる。そうやって「これはアートだ」というメタメッセージとともに「芸術」を受信している。それとは違う経験を、「雨宮宮雨と以」という奇妙な名前の展示は提供しようとしている、ということが会場に入るなり感じられた。
そこには無造作な印象があった。カフェのカウンターとひとつながりになったアートセンター自体が、肩のこらないつくりになっていることに加えて、展示のレイアウトも、ざっくばらんというか、雑貨屋さん的というか、あらゆる種類・材質・媒体の作品が展示台の上に所狭しと置かれていて、ひとつひとつが「作品」としての個性を訴えにくくなっている。
作品を作品としてポジティブに押し出すことにためらいがあるのだろうか?作品が後景に退いて感じられる。その一方で、この空間には作家がいて、自分が何を考えているか、自身のことばで入場者に伝えることに積極的だ。なんだか、芸術のあり方が大きく変わってきたのを感じる。