千賀健史個展「まず、自分でやってみる。」を観て

この展覧会は、千賀健史が2019年から行った特殊詐欺とその犯罪者、被害者関係者をリサーチした成果をもとにしている。さて、千賀健史の個展は、「まず、自分でやってみる」とテーマが名付けられている。この展覧会名について、主催者は、次ように説明している。

 

人々に自力で工夫して問題を解決することや、自助を促すような印象を与える言葉です。私たちは普段、職場や学校、家庭などで問題に直面したとき、まずは自分の頭で考え、何かを試してみるのではないでしょうか。それでも解決できなければ、他者を頼るという順序がコモン・センス(社会や文化における共通の認識)として存在しています。そして千賀自身も生活や制作のなかで、まずは自分でやってみることを大切にしてきました。一方で千賀は、コロナ禍で生活が困窮する知人たちを目にしたとき、“自分でやってみる”の適用範囲や条件に疑問を抱き始めます。「どこまで行けば他者を頼ってもいいのだろうか?」個々人によって言葉の認識には差異があり、本来は他者や社会全体を頼るべき状況にも関わらず、どこまでも真摯に一人で抱え込む人がいます。そうさせている社会的な背景も存在します。その結果、藁にもすがる思いで取った行動が法を犯すものとなってしまうこともあるかもしれません。本展を鑑賞することで、いまの社会に通底する思想やそれがさまざまな立場の人に及ぼす影響について想いを馳せることになるでしょう。 

 

こうした人々の自助努力について、どこまでやれば良いのか、あるいはその後、他人の助けをいつ借りれば良いのか、と言う葛藤については、かつての政権が、「自助」、「共助」、「公助」を唱えた経緯もあり、まずは、この事について考える必要があるだろう。いかにも、理にかなったようなこのスローガンは、一方で、日本の資本主義とそれを支える民主主義の劣化が巧みに隠蔽されているものであることを忘れてはならないだろう。人口減による税収の減少、民間の金融機関の不良債権以上に、国家の国債の発行による多額の借金は景気の後退に反してひたすら右肩上がりになっている。公的サービスの低下に伴い、年金や医療費が将来若い世代には用意されないばかりか、それを支えるための納税だけが次世代に課されることになる。おまけに、低所得者層は増加するばかりの社会構造もまた、不気味なほど静かにだが着々と悪化している。お金=貨幣という現物に対する強い関心はあるものの、そのシステムに関心を寄せることはない。そもそもそうした事案を考える余裕さえない。また、今日ではそうした現物としての貨幣に加えて、仮想通貨も加われば経済の構造すら不可視の領域になってしまっている。千賀は、こうした社会にあって、極めて短絡的に金を奪おうとする詐欺行為やあるいは窃盗などの犯罪について思いを馳せている。とは言え、その関心は犯罪そのものではなく、そこで行われる人々―被害者や傍観者も含め―の振る舞いに向けられている。 

 

ところで、21世紀を迎えて以降、デジタル化はさらに本格化し、社会全体のインフラも支える重要なメディウムとなっている。デジタル化の導入前と後では様々な変化を見せたが、何よりも情報への距離感が圧倒的に短縮されたことは大きな変化の一つだろう。アクセスしたい情報もまたデジタル化され、検索も瞬時に果たされる。これらの作業は、もっぱらパソコンやスマートフォンを扱うことで進められ、図書館に行って実際の書籍や紙資料を丹念に検索するスピードとは桁違いである。 

今回の千賀展では、写真、それもデジタルの手法を使ったmanipulateされた写真が多く展示されている。いわゆるストレート写真ではない、イメージが操作された写真である。こうした操作は、実は、写真が登場した19世紀後半にはすでに行われていたし、20世紀初頭の美術表現の一つ「フォトモンタージュ」としても登場しており、それは同時に政治的プロパガンダや風刺のための手法としても盛んに応用されていた。写真の一義的な機能は、現実をありのまま写し取ることにあるが、同時にイメージを操作することによってその意味を変換させることが出来るのもその機能の一つである。昨今、スマートフォンの写真機能において、邪魔な背景を簡単に消去したり、あるいは他のイメージを貼り付けることが出来る機能を盛んに宣伝するメッセージが散見される。そこには、ありのままの現実を操作することへの抵抗感も、あまつさえ倫理観なども微塵もない。というよりも、そもそもの写真の機能の一つにすぎないと言っているようにもみえる。 

 

一方、千賀がテーマとした特殊詐欺=犯罪は、近代国家において管理を強化すべき項目の一つでもある。フーコーの生政治の概念を拝借すれば、工場、学校、監獄などにおいて、身体の規律や訓育を目指しつつ、出生・死亡率の統制、公衆衛生、健康への配慮などの形で、生そのものの管理を目指すものの中の一つである。監獄のシステムとしてのパノプティコンは、監視する側が見えないという意味で、現在の監視カメラに引き継がれている。また、スマートフォンの普及によって、本来明かされない犯罪者のアジトまで衆人環視の中で晒されることになる。監視する側、される側といった眼差しのベクトルは、もはや一方向ではなくなりつつあるばかりか、場合によっては、眼差しの主が仮想空間の中のAIであることさえ想定できる。こうした状況を千賀は、人々の間に疑心暗鬼を生み、密なコミュニケーションとは程遠い疎遠な人間関係を生んでいると認識している。 

千賀は今回の作品制作において、「溶かす」という行為を介入させている。実際には、特殊詐欺の犯罪者が、証拠隠滅のために書類をで溶かしてしまうことを念頭に置いている。ここでは、無色透明の水が、そこにかつて有ったものが無くなっている状態を暗示し、日々一見穏やかに見える社会そのものを反映する表象として機能させようとしている。この事について千賀が語った言葉があるので引用してみたい。 

 

水溶紙を溶かす手法だけでなく、撮影そのものでも痕跡を撮ることを意識しています。痕跡の撮影は、自分で限りなく本当の詐欺現場に近い条件を作り、演技したあとに残されたものを撮っているので、そのものには何の意味もないはずです。それにもかかわらず、本当のアジトの痕跡となにが違うのかは見出せず、彼らと自分の差がないように感じました。今回の展示では、痕跡を撮影した写真のネガを実際のオブジェクト(イミテーションの手錠、お札など)と一緒にフィルムスキャンすることで、写真と写真になるものを同時に写しました。スキャナーはフィルムに最適化されていたので、オブジェクトの色は変になりましたが、そこも一方が他方に与える影響や見えないシステムの影響を感じさせます。私たちはイメージそのものを写真とみなすことはできるのでしょうか。 

 

 

今回の展覧会で改めて写真の持つ指標(インデックス)としての機能を再認識する事になったのは偶然ではないだろう。写真には、一体それが何かを示す言葉がなければ途端に意味を失う特性があるにもかかわらず、である。展示されている詳細な説明がない写真を見るといかにも意味ありげで、加えて怪しい印象を得るのは、例えば指名手配写真のフォーマットやそれを掻き消す行為が知らず知らずのうちに、人々のイメージ認識のプログラムに組み込まれているからではないだろうか。そして、この展覧会全体が、そうした人々のまずは行為するという、場合によっては果敢で、しかし場合によっては思慮の浅い無謀さを暗示しているように見える。 

天野太郎/Taro AMANO
キュレーター

2022年より東京オペラシティギャラリー チーフ・キュレーター。
北海道立近代美術館勤務を経て、1987年の開設準備室より27年あまりの長きにわたり横浜美術館に勤務し、「ニューヨーク・ニューアート チェース マンハッタン銀行コレクション展」(1989)、「森村泰昌展 美に至る病 ―女優になった私」(1996)、「奈良美智展 I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」(2001)、「ノンセクト・ラディカル 現代の写真 III」(2004)、「アイドル!」(06年)など、同館の数多くの展覧会の企画に参画。その間「横浜トリエンナーレ」のキュレーター(2005)、キュレトリアル・ヘッド(2011,2014)、札幌国際芸術祭2020統括ディレクター(2018-2021)を務めるほか、昭和女子大学、城西国際大学などで後進の指導にあたるなど、豊富な経験と実績で知られている。