大人になったとみなされるためには、社会の中にある所与の規範——常識に従って思考しなければならない、自分が持つ性別に即したふるまいや身体を身につけねばならない、欲望の発散はTPOをわきまえて行わなければならない……——へと身を委ねて、そこに適合した(身体を持つ)存在として自らを形成する必要がある。成熟をこうした適合のプロセスとして捉える認識はいうまでもなく浸透しているし、現在の社会において規範とされているものへの問い直しは、現在でもなお進行している。
上記のような認識とともに子どもをまなざすとき、人はしばしばその未成熟性に積極的な可能性を見出す。こういうふうにふるまったり思考したりしなければいけない、という枠組みに縛られていないために、縦横無尽に動き回ったり自由自在に想像力を発揮したりすることが可能で、また身体的な意味でも社会的な意味でも十分には性的に「成熟」していないために(二つの意味がそう厳密に分けられるものではない点には注意を払うべきだが)、性別に縛られすぎることもなかったりする、ようするに脱規範的な存在。このようなかたちで、規範的な文化を撹乱する可能性を子どもへと見出す戦略は、実際のところ芸術のなかにしばしば見られるものだ(註1)。
もちろん、子どもと成熟した存在=大人を対置して撹乱者としての前者の側につく、という二項対立的な発想には様々な問題があり(註2)、最終的にはここから脱却することを目指すべきだろう。とはいえ、こうした二項対立が生じる場への批判的な検討を執拗に続けることで、成熟や(脱)規範性を別の仕方で思考するためのヒントを得ることも可能なのではないか。以下ではこの観点から奈良美智の実践を部分的に検討し、実践の総体、ひいては未成熟なもの全般についてさらに探究していくための端緒としたい。