東京藝術大学、ベルリン芸術大学を経て現在ベルリンに在住する若手アーティスト、小林颯による個展「ポリパロール」が7月21日まで八重洲・BUGにて開催中だ。同展は、パンデミック時の留学経験や、長期間の海外滞在を通した移民・在外邦人としての自覚や境遇など、「留学生」という曖昧な立場にある小林の複雑な感情を反映したものになっている。
展示スペースに入ると、まずいくつもの映像作品が目に入り、それらから生じている話し声の交錯を体験する。あなたはロンドンやベルリンの街を歩いたことがあるだろうか。様々な言語の話し声が絶え間なく飛び交う大通り—近くなり、遠くなって、また近くなったと思えば通り過ぎていく無数の声—。本展示の空間に入ってすぐ、そんな記憶が蘇った。一つの作品として完結していたと思われた個々の作品が、その境界を超え、一つの「ノイズ」—彼のいう「ポリパロール」に該当するのだろうか—として立ち上がり、空間全体を通じて経験される。私たちが普段「ノイズ」に耳を傾けることは少ない。しかし耳を澄まして聞けば、そこには一つひとつの声がある。大きい声でも小さい声でも、はっきりとした口調でもそうでなくても、そこに誰かの声があることには変わりないことを想起させる。
彼は制作のあり方を大きく2つに分類しており、より社会的な問題と関わるものを「大きい制作」、より個人的なものを「小さい制作」と呼んでいるようだ。今回の展示で言えば《134万人の口へ》や《つぎはぎの言語》が「大きい制作」にあたり、「小さい制作」にはPodcastシリーズ《Süß》や、《dailylog》が含まれる。《dailylog》では、小林がドイツでの生活を経験する中で感じた些細なことや、パンデミックにおける留学の苦悩やフラストレーションが様々な場所や時間帯で収録されている。彼が映像内で話すことに、私はただただ共感するばかりだった。というのも筆者は英国に留学しており、彼が映像内で言及したことの多くは(冬の日の短さ、お風呂に入らないカルチャーについてなど)ドイツに限らずヨーロッパで広く一般的なことだからだ。他にも、彼がドイツで見たものを日本の何かに置き換える(例えば「この川は多摩川に似ているな」など)連想ゲームのような行為についての言及があったが、私自身もそのような妄想でホームシックをなんとか消化してきたことを思い出した。
ここで一度、展覧会のタイトルである「ポリパロール(Polyparole)」という言葉について考えてみる。Poly-とは「多くの」や「複数の」という意味を持つ接頭辞であり、一方パロール(parole)とは、一般的に言語学の領域で用いられる用語だ。言語学者ソシュールによれば、言語活動(ランガージュ)には2つの要素がある: 1. ラング=同一言語を用いる個々人の言語活動を支え、社会制度・規則の体系としての言語、2. パロール=社会制度としてのラングに依拠しながら、個々人が個々の場面で行使する言葉。大雑把に言えば「パロール」とは、個人の発話(おしゃべり)である。
一方で、電車内のサイネージやYouTubeなどで私達が触れるメディアの多くは、会話の自然さや人間くささは削ぎ落とされ、より純粋に情報が伝達されることを優先している。息遣いやフィラー(「えーと」や「なんか」などの言葉)は「不要」とみなされ、私達に提供される前に一掃されることも少なくない。このような処理は、ラングが発話として個々人に運用される際に、不可避的に発生してしまうノイズを除去しようとする試みにほかならない。ここではそのような発話のあり方を「非人間的(dehumanized)発話」と呼んでみたい。反対に小林の《dailylog》や《Süß》はこの態度に逆行するもので、通常ならば除去されるような長い間(ま)、彼自身の息遣いやフィラーなど、非人間的発話でない人間の発話の普通すぎる姿が映像には残されていた。これには少し変な感覚を覚えたが、逆説的にこの感覚は、非人間的発話が横行するメディア社会と、それに慣れてしまった自分の異常性を思い起こさせたように私は思う。
再び言語学の話に戻るが、日本語で蝶と蛾はそれぞれ別の生き物として区別・認識される一方、フランス語ではどちらもpapillon*¹と呼ばれるという話を聞いたことがあるだろう。つまり、言語間でも*²、シニフィアン(記号表現)の指すシニフィエ(記号内容)には揺らぎがあるということだ。例えば「お疲れ様」という言い回しを、そのニュアンスを維持したまま他言語に翻訳することは極めて難しい。good jobともthank youとも違う、独特の挨拶感があったりする。このような事例は実は世に溢れており(というより、正確にはありとあらゆる言葉がそうであるはずだ)、小林はこの翻訳できなさを、彼の多くの作品—たとえば《つぎはぎの言語》で多言語の字幕をつけたように—、複数の言語間で対応しているシニフィエのゆらぎを映像というメディアのなかですくい上げることに成功しているといえるだろう。
*¹正確には蝶をpapillon、蛾をpapillon de nuitと呼ぶ。
*²「言語間でも」と書いたのは、突き詰めれば、まずあるシニフィアンのシニフィエは個人間でもゆらぎがあるからだ。ただしここでは個人間ではなく言語間の揺らぎについて言及しているので省略した。
2003年東京都生まれ。2022年にロンドン芸術大学セントラル・セント・マーティンズ Foundation Diploma in Art and Design修了。同年から公益財団法人江副記念リクルート財団の支援を受け、現在まで奨学生として同学校のFine Art 2D専攻に在籍中。絵画だけでなく立体や映像作品など、媒体にとらわれない自由な実践アプローチを執ることで、生産の欲望を多様な方向へと発散させることを試みている。