背後には、たよるべき何物もなく、踏んでいる大地だけが最後の拠点となって、ようやく冷静に、戦局の全体を見透すことができるようになる。この瞬間から、敵がおそろしく脆弱なものにみえてくる。いとも容易に打開の道がみいだされる。降服など、もってのほかのこととなり、ほとんど防御する意欲すら失ってしまう。そうして、ついに、かれらのすさまじい反撃の火蓋がきられるのだ。反撃に反撃をかさね、敵に息を継ぐ暇さえあたえず──起承転結の法則を嘲笑するかのように、逆にエピローグからプロローグにむかって、かれらはひた押しに押してゆく。
花田清輝『復興期の精神』

 

私たちが直面している状況を的確に、その全てを包括するように語ることは難しい。一方では環境問題があり、他方ではマイノリティの問題があり、また人工知能をはじめとする技術の急進的な発展があり、そして戦争がある。そしてしばしば語られるように、これらの問題はゆっくりと迫り来る問題ではなく、一刻を争う危機的な事態として現れてきている。
だからこそ私たちがするべきなのは思想や芸術ではなく、より直接的なアクションである。取り返しがつかなくなる前に、世界が本当に最悪になる前に、少しでもマシな最悪な世界に踏みとどまるために行動をしなければならないといわれたら、私は正面から切り返せる言葉を持っていない。私自身そのように考えているからだ。確かに、抵抗する声を上げることは正しい。一方で私はこの数年間、そのような最悪な現実に対する抵抗、いやあえていうとするならば、「闘争」の方法について私は考えていた。あまりにも血生臭く、手垢に塗れた言葉である「闘争」という言葉をあえて再びここで用いることにする。

私が大学に入学したのは世界的に新型コロナウイルス(COVID-19)によるパンデミックが起こった年である。私の大学生活は日本および国際社会の戦後築き上げられてきた秩序の基盤が大きく崩れていく様を目の当たりにしていくものであり、それは一人の人間として何かに進もうと思った時、その指針となるようなものが崩れ去っていくという経験であった。数年前まで存在していた全てが「過去」の物になり、荒廃とした世界にただ立ちすくんでいるという感覚がはっきりとあった。
それでも何かを始めなくてはならない。でも何を?
世界がどうあればいいかはわからないし、どこへ進めばよいのかもわからない。
確かに言えることといえば今の私の目の前にある現実が理想的な訳がないということだった。差別は依然として残り続けるし、侵略戦争は依然として繰り返されている。
様々な問題に直面するたびに、私は目の前にある現実をとにかく否定することしかできなかった。戦争はあるべきではない。苦しんでいる人を無視するべきではない。人の尊厳が踏みにじられることはあってはいけない。確かに理想の世界には戦争はない。不幸な人もいないはずだ。誰もが傷つけられず、安心して生きていくことのできる世界。しかしそのような世界が一体どのような世界なのか、私には想像することができなかった。

私の手元に一冊の本がある。花田清輝(1909-1974)の『復興期の精神』(講談社文芸文庫 2008年)という本だ。この本の原稿は第二次世界大戦の戦時下において書かれたものである。
花田清輝は本書にて、詩人のエドガー・アラン・ポーについて『終末観─ポー』、『球面三角──ポー』 と題し二つの短いエッセイを書いている。ポーの「詩は、すべての芸術作品が始るべき終りから、始る」という思想に注目する。花田はポーの文学作品に闘争の戦略を見出していた。
私は花田の異色とも言えるポー論に強く惹きつけられた。
結末から発端に向かう運動。それは発端から結末に向かうよりもはるかに整然とした活路を切り開く。花田は「結末」を「死」という言葉に言い換えてこのように語る。

 

死の記憶が、絶えず我々を驀進させ、死の想像が、つねに我々を組織的に一定の軌道のうちに保つ。私は、逆回転された、シネマの一場面を思い浮べる。遥か彼方で、濛々たる白い煙が、見るみるうちに凝縮して一個の黒点となり、ものすごい速力で弾道を描きながら、ぐんぐん砲口にむかって帰ってくるのだ。

 

花田はここで死の観念を持つことの重要性を説いている。結末=死を想像すること。それは直ちにペシミスティックになることを意味しない。花田に言わせてみれば、人は死を想像することで初めて組織化=連帯することが可能になるのであり、生産的にすらなる。逆に死という観念を持たなければ己の欲望の赴くがままに行動し、何かを生産することはなく、ただただ目の前にあるものを消費し続ける存在になるという。
暴論とも思われる花田の「死」をめぐる考えは、いうまでもなくある危険性を孕んでいる。それは人は死に瀕した状態にあれば、生産的に、人間らしく生きていけるということである。今日において様々な事情によって希死念慮を抱えた人がいる世の中で、この花田の主張をそのまま受け入れることは難しい。だが花田がここで語る「死」とはあくまで結末であって、捉え難い事実である結末としての「死」とそこへ向かっていく過程、プロセスを徹底的に論理的に把握しようとすることについて考えている。
「結末」はいつだって捉え難く、にもかかわらず簡単に想像することができてしまうものでもある。
マーク・フィッシャー(1968-2017)が『資本主義リアリズム』(堀之内出版 2018)の中で引用したフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というあまりにも有名なフレーズがある。
私たちは世界の終わりは想像できても今私たちが生きている現実、資本主義に包まれた世界の終わりは想像することはできない。
ここでは差し当たり、資本主義の終わりをなぜ想像することができないのかという問題はおいておき、なぜ世界の終りと資本主義の終わりという「結末」が二つあるのかということについて考えるとしよう。私たちが想像する一つの「結末」には、「結末」の瞬間のイメージというものがある。古くから人々はこの瞬間のイメージを様々な形で描いてきた。天変地異、隕石の衝突、宇宙人の侵略。例を出せば枚挙にいとまがない。一方で世界の終りも自分の人生の終わりもある日突然訪れるわけではない。然るべき理由によって訪れるものである。「結末」にはそれに向かう過程が存在する。「結末」とは必ずしもある瞬間に突然訪れる劇的な出来事ではないのだ。花田はポーの詩作を「結末」の過程を論理的に捉えようとする試みとして考え、このように語る。

 
宇宙終焉の姿を、その細部にいたるまで辿ることは、いかにも興味あることにはちがいないが、ついに神話の創造におわることになるかも知れない。天地開闢の神話に飽き、あくまで科学的な探求を試みようとして、プロローグよりもエピローグを取り上げたにも拘らず、結果は、初期キリスト教徒の想像した宇宙終焉の図と、大して径庭のないものになるかも知れない。ポーは『ユリイカ』において、恐るるところなく、この問題に立ち向った。しかし、今はそこまで取扱う余裕はない。ここでは、『構成の哲学』が、あらゆる哲学の例に洩れず、いかに密接に死の観念と関連し、詩作など楽なものだというようなポーの平然たる口調の裏に、いかにかれ自身が、ペンをとるにあたって、眩暈を感じ、絶望し、つねに決死的反撃の態度にでることを余儀なくされていたかをみとめ得るという、至極当然のことを指摘するにとどめる。

 

花田が「宇宙終焉の姿」と語るもの。それはいうまでもなく私にとっては今私たちが生きている世界と、この世界が終わる瞬間までを一気に結んでしまうような終末観ではない。「宇宙終焉の姿」とはこの世界の始まり(=プロローグ)から今私たちが生きている地点を通過し、世界の終り(=エピローグ)に到達する連続のなかで現れる姿である。
「宇宙終焉の姿」を辿ることができれば、そこから一気にエピローグからプロローグまでを遡行する。全ての終わりが全ての始まりとなり、エピローグとプロローグは円周軌道を描く。そのような闘争は非常に困難な道のりであるが故に、徹底的に非人間的想像力を持たなくてはならなかった。そして言い換えれば、絶望に直面しこのような荒唐無稽な方法をとることで初めて人間が非人間的想像力を獲得するに至るのであって、その想像力が花田の考える闘争にとって必要不可欠なのだ。
私がここでいう非人間的想像力とは徹底的に論理によって支えられた想像力である。それは感情によって形作られた想像力とは対照的な想像力である。花田はポーの終末観を、これまでの終末観を感情に訴えかけるものとした上で対置させたうえで、非人間的想像力の先に導き出した終末こそを唯一の闘争の拠点とするのだ。

人間にとって「終末」や「終焉」には非常に甘美な誘惑がある。そして気候変動や戦争が起こっている今日においてその誘惑は日に日に増してきているように私は思う。そしてそれは日々様々な情報がインターネット環境を通じ、人々の感情によって増幅されていく混乱した状況と無関係ではないように思う。私は花田が戦時下において、ポーの終末観を書いたことの意味を今一度重く受け取るべきだと考える。

芸術作品というものは、それに触れるものの意識や身体に作用し、それ以前とは全く異なるものに作り変えてしまう力がある。そしてそれはその力は死を通過し、再び生へと向かう力に他ならない。それに触れたもののこれまでのあり方が一度消滅することなしに新しい別のあり方の生成などありえないからだ。「結末」と「発端」を捉え、「死」から「生」の遡行をすること。それは同時に絶望的な状況に立ち向かうための闘争の必勝の戦略だった。世界が政治によって激しく分断され、感情だけが連鎖的に広がる今日において、花田の闘争をめぐる思想を今日における芸術論として展開させ、闘争の拠点としての芸術と芸術を介した連帯の可能性を私は提起したい。


white
水野幸司/Koji MIZUNO

2000年生まれ。東京藝術大学 先端芸術表現科 在籍。
2016年『百鬼夜行』が第66回学展大賞を受賞。2022年学展特別展示「UNKNOWN VISITORS」のキュレーターおよび出展作家として参加。2023年岸裕真 個展「The Frankenstein Papers」にコ・キュレーターとして参加。他にも絵画作品などの制作から文章の執筆などを通し幅広く活動。


BUGでは、活動方針の一つであるアートワーカー向け支援として、批評家のネットワーク構築、発表の場の提供を行っています。
支援の形としてどのようなことがあると良いのか、まずは知ることを目的に、トークイベントの開催や、批評執筆の依頼などに取り組んでいます。
取り組みの一つとして、第1回BUG Art Award ファイナリスト展の展評と、自身の好きなテーマでの批評、2本の批評執筆を石田裕己さんと水野幸司さん、2名の方にご依頼しました。