花田はここで死の観念を持つことの重要性を説いている。結末=死を想像すること。それは直ちにペシミスティックになることを意味しない。花田に言わせてみれば、人は死を想像することで初めて組織化=連帯することが可能になるのであり、生産的にすらなる。逆に死という観念を持たなければ己の欲望の赴くがままに行動し、何かを生産することはなく、ただただ目の前にあるものを消費し続ける存在になるという。
暴論とも思われる花田の「死」をめぐる考えは、いうまでもなくある危険性を孕んでいる。それは人は死に瀕した状態にあれば、生産的に、人間らしく生きていけるということである。今日において様々な事情によって希死念慮を抱えた人がいる世の中で、この花田の主張をそのまま受け入れることは難しい。だが花田がここで語る「死」とはあくまで結末であって、捉え難い事実である結末としての「死」とそこへ向かっていく過程、プロセスを徹底的に論理的に把握しようとすることについて考えている。
「結末」はいつだって捉え難く、にもかかわらず簡単に想像することができてしまうものでもある。
マーク・フィッシャー(1968-2017)が『資本主義リアリズム』(堀之内出版 2018)の中で引用したフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というあまりにも有名なフレーズがある。
私たちは世界の終わりは想像できても今私たちが生きている現実、資本主義に包まれた世界の終わりは想像することはできない。
ここでは差し当たり、資本主義の終わりをなぜ想像することができないのかという問題はおいておき、なぜ世界の終りと資本主義の終わりという「結末」が二つあるのかということについて考えるとしよう。私たちが想像する一つの「結末」には、「結末」の瞬間のイメージというものがある。古くから人々はこの瞬間のイメージを様々な形で描いてきた。天変地異、隕石の衝突、宇宙人の侵略。例を出せば枚挙にいとまがない。一方で世界の終りも自分の人生の終わりもある日突然訪れるわけではない。然るべき理由によって訪れるものである。「結末」にはそれに向かう過程が存在する。「結末」とは必ずしもある瞬間に突然訪れる劇的な出来事ではないのだ。花田はポーの詩作を「結末」の過程を論理的に捉えようとする試みとして考え、このように語る。