本稿は、2026年2月から4月にかけて東京駅に隣接するアートセンターBUGで開催されているやんツーによる個展《浮遊する器官》のコンセプトと射程について論じる。なお、この展覧会は、解散から投開票まで16日間で行われた戦後最短の衆議院選挙で、高市早苗首相の率いる自由民主党が大勝を収めた半月後に幕を開けた。戦後80年が経ち、恒久平和主義に基づいて国際紛争解決手段としての武力行使の徹底的放棄を謳う日本国憲法第9条の存続が脅かされている今日、芸術に賭けられているものは何か。

 アーティストのやんツーは1984年生まれ。自律型の装置を実装し、人間の表現行為を機械に代替させるシニカルな複数の前作がある。テクノロジーの両義性や人間の身体器官の延長としての技術の論理に関心をもつ。ひとたび実用化されれば、政治や戦争のために使用されることのできる人類の技術を批判的に思索してきた。技術の道徳性は、芸術領域でもしばしば問われてきたが、本展覧会が特筆に値するとすれば、それはまずもって直接的である点による。本作に立ち会う者が、見て見ぬ振りをすることを、この作品は許さない。

 作品は、擬人化されたドローンとカタパルトが、AIが生成する台本を演じる擬似的なヒューマニズム演劇である。シナリオの大筋を方向づけるプロンプトでは、ドローンとカタパルトの性格や思想背景が規定され、実際の台詞はそれに基づいて書かれる。四つのシーンがどのように展開するか、その筋書きの組み合わせにはいくつものバージョンがあり、上演されるたびに私たちの目前で台本は書き直され、演出が新たになる。やんツーの作品がしばしばそうであるように、これらの機械も、それらの声も、音響も照明も、スクリーンに映し出される映像も、ある種の限定された「自律性」が担保される。彼らの繰り広げる茶番は金網の向こう側で終始し、私たちは安全な柵で守られた傍観者となる。石はこちら側に飛んでこない。

 カタパルト(投石器)の歴史は古い。中国では紀元前5世紀、ギリシャ世界では紀元前4世紀、マケドニア王国の軍事遠征において発展した。てこの原理と素材の弾力性を利用して石などを飛ばし、城壁を破壊する原始的な装置である。やがて、石のほかに火炎物質、汚物や死体などを投射する兵器として用いられ、火砲の登場後も限定的な用途で近代まで使用され続けた。一方、カメラ付きのドローン(無人航空機)はデュアルユースされている比較的新しい技術のひとつである。今日では人工知能研究と結びついて自律的なドローンが軍事利用されている。ベトナム戦争以来、偵察用として実用化されたドローンは、まもなく攻撃機としての有用性が認められ、爆薬を積んだ兵器としても運用されるようになる。衛星経由で遠隔操作できる無人機のおかげで、人殺しを遂行するパイロットは戦場に身を置くことがない。戦争は、文字通り遥か彼方まで延長された私たちの器官が自律性を獲得し、もはや私たちの制御の手を離れるという局面において、今まさに展開されている。

 「技術には、軍事利用でなくほかの道があるべきだ」と訴えることが、作家の意図だとするのは詭弁である。劇中の、自己矛盾を抱えた感傷的なドローンは、偵察目的の小型航空機の本意は人々の平和な日常を垣間見ることであり、それに爆薬を積んだのは人間たちの過失であったと嘆く。人間が生み出した技術は、破壊の目的を果たすのではなく、より良い未来に向けて考え続けなければならないとドローンは訴える。技術が「ファルマコン」(φάρμακον、ギリシャ語で薬=毒の両義的存在を意味する語)であるというとき、それは、ある技術が使い道によって毒にもなるし薬にもなることを意味しない。善意で使えば人を幸せにし、悪意で使えば暴力になるという解釈は、その意味を根本的に取り違えている。そうでなく、ある技術は文字通り、本質的に、薬であると同時に毒なのである。互いが互いを含み合う、双子の精神に等しい。ひとたび発明された技術が、それが可能である限り、かならず軍事利用に陥ってきたことを、人類の歴史は証言する。ノーベルのダイナマイトも、オッペンハイマーの原子爆弾も、ドローンも、人工知能も、すべからく戦争の奉仕者である。したがって、ドローンにスノッブな現代の精神を、カタパルトに古めかしい前近代の戦争の精神を当てがい論争させるという人道主義は、こうした現実を前にあまりにナイーブに響く。

 ちなみに、カタパルトとドローンの邂逅は、こうした作品中の意図を超えた象徴性がある。カタパルト(catapult)は、伝統的な投石器であると同時に、空母の甲板から固定翼機を高速で射出する装置(Aircraft  catapult)の名でもある。加速装置としてのカタパルトは、二度の世界大戦時にはアメリカを中心に戦艦や巡洋艦に搭載され、偵察を目的とする水上機の発艦に貢献した。大日本帝国海軍もまた主として火薬式カタパルトを巡洋艦や戦艦に搭載していた。神風特別攻撃隊は、終戦間近に10ヶ月間実施された、航空爆弾として操縦士が犠牲となる自爆攻撃であるが、実は1945年5月、特攻機の戦果評価をめぐり、効果的な撃角を割り出すために無人の零戦をカタパルト的な加速装置で射出する実験が行われた記録が残っている。さればドローンは、戦場の海を漂う戦艦乗員の命も、敵艦に体当たりした特攻員の命も、何ひとつ賭けることなく沈黙して飛翔するテクノロジーの名である。

 さて、カタパルトの渾身の一撃は、ドローンをかすめ、壁にぶつかって鈍い音を立てる。インスタレーションの壁は砲撃を受けたかのようにあらかじめ破壊されており、床面に残骸が散らばる。壁面にはウクライナの日常を生きる人々の住居に二重壁の工夫がされていることについての資料があり、この展覧会のチラシのデザインはガザの戦火を彷彿とさせるものになっている。私の母方の祖父は昭和2年生まれ、特攻隊員の多くを輩出した予科練での叩き上げで、終生気丈な人だった。もう一人の祖父は敗戦時に捕虜となり、戦後5年のシベリア抑留を生き延びたが、その当時の経験を決して語ろうとはしなかった。彼らは私たちのもとを去った。私たちは今、戦争を忘れたのだろうか。私たちの精神は、戦争を知らないのだろうか。ウクライナの現実は、ガザの生活は、遠すぎて想像におよばない別世界の出来事なのだろうか。否。私たちは、今じゅうぶんに彼らと同じ世界を生きている。

 本展でアーティストのやんツーが参照する「器官」とは、第一義的に、道具として拡張された私たちの身体器官のことであるが、それは同時に、私たち自身が何者であるかをむしろ問いかけてくる、テクノロジーそのもののことでもある。技術は本質的に自己編集的である。人工知能は私たちの精神にひるがえって働きかけ、これを彫琢しなおす。生政治のための技術は私たちの生命倫理を新たにし、生と死の意味を、存在論そのものを揺るがす。全ては都市の政治である。ギリシャ時代から今日まで一貫して、戦争は政治の道具であり続けている。戦争は、理性的な技術、すなわち、テクノロジーなのである。

 私はこの作品が射程する問題を評価する。メディアアートはテクノロジーを駆使した芸術表現として同定されてきた。メディアアートによる自己言及とはしばしば、私たちの延長された器官との再会における幸福や驚き、結果としての知覚の拡張をハイライトすることにとどまってきた。現実世界の生が悲壮であるならば、芸術こそ平穏なれ、と言わんばかりの黙殺ぶりに、本作は抗議する。私たちはひとつの世界に生きており、この地球上のあらゆる、過去と未来の経験を、その浮遊する器官に引き受けることの意味を、本作は問うている。目撃者たれ。


大久保美紀 / Miki OKUBO
キュレータ

1984年札幌生。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]准教授。専門は美学・ 芸術学、共感論、エコロジー美学、身体論など。主著に《Exposition de soi à l’ époque mobile / liquide》(2017、 パリ)。企画した展覧会にシリーズ展「ファルマコン」(2017-2023、京都ほか)、「遍在、不死、メタモルフォーゼ」(2024、京都)、「繭/ COCOON: 技術から思考するエコロジー」(2025、 岐阜)、「石に話すことを教える」(2025、京都)など。アートユニット florian gadenne + miki okubo としてグループ展に参加多数