クリエイティブディレクター/編集者として活躍する花井優太さん。
雑誌や書籍の編集のみならず、企業戦略、企業や行政の情報設計や映像などの企画など情報にまつわるコミュニケーション全般をお仕事にされています。
アートワーカー(企画者向け)オンラインプログラム「CRAWL」のメンターはどのような遍歴でさまざまな企画を立ち上げてきたのでしょうか。
現在は独立されているとのことですが、独立に至るまでの道のりを順を追って話していただけますか?
僕は大学を2011年に卒業したのですが、震災が起きた年でもあって内定取り消しっていう言葉が出てきたり、同級生は就職先なくなっちゃったりとか、卒業式がなかったり……急に情勢が不安定になって、仕事に就くことも難しかったような世代ですかね。そもそも2008年にリーマンショックがあったので、氷河期も氷河期だったわけです。
あんまり未来への希望も見出せないし、学生時代はバンドしかしていないような毎日だったので、音楽で食べられたらいいなって思っていました。でも音源を作っていた時に、マスタリングのエンジニアの人に進路を聞かれて、このままフリーターしながら音楽活動を続けようと思います、って答えたんです。そしたら、音楽でも生計立てていく以上、お金が数えられなかったらダメなんだよ、って言われました。やる気があれば音楽はずっとできるから、働いてみるっていうのも人生長い目で見たらありなんじゃない、って言われて、確かにそうだと思って、メーカーに就職しました。
メーカーでは、何の仕事してたんですか?
営業ですね。でも全然優秀じゃなかった。学生時代はだいぶ無頼を気取っていて、自堕落な生活からマニュアルがきっちりした環境に変わってついていけなかったんです。目指さなきゃいけない数字があって、結果があればそれでいいじゃないなんて思っていたんですけど、そもそも経験も知識も足りてないわけですから、結果が出るわけないじゃんっていうね。今ならわかるんですけど、そういう当たり前のことができない子だったんですよ。
それで、やっぱり俺には音楽だってなって、仕事をやめちゃう。そうしたら有給消化していた2012年の夏に、学生時代に本屋でバイトしていた時の友達から連絡が来て、カルチャー誌の企画で村上春樹の特集をすることになったんだけど、長編小説に出てくる音楽の全曲リストをつくることになったから手伝ってくれないか、って頼まれたんです。
雑誌名も知らないまま、とりあえず頼まれた仕事を自分なりにやってみました。本屋で村上春樹を特集している雑誌を見かけて、 あ、僕の仕事が載っている雑誌はこれだったんだ、と思いました。その後、編集部の方からお礼がしたいと赤坂に呼ばれたんです。それが博報堂ケトルっていう会社だった。
いま、お仕事は何をやっているんですか、って聞かれて、ニートですって答えたら、フリーのライターをやってみませんか、って誘われました。職がないのは良くないよなと思っていたので、とりあえず始めてみた感じです。数ヶ月やっていたら、その年の年末に来春から正式に入社してくれないかと言われ、2013年の春に入社しました。バンドを続けられないかもしれないから悩みましたが、完全に流れに身を任せました。
そこからは編集者として雑誌『ケトル』の副編集長もして、雑誌『tattva』を立ち上げて編集長を務めることになったと。一方で、企業や行政のコミュニケーションを仕事にすることになったのは、どんなきっかけがあったんですか?
編集者として、日々膨大な記事を作るようになっていたから、切り口や見出しも当然大量に考えていたわけですね。それって翻せば、こういう情報だったらこんな切り口があって、見出しはこうなるよねっていう逆算する力も磨かれるということで、PR的な思考が同時に身に付く。情報がどのような見出しになって、何をフックにすると引き付けられやすいとか、そういうことを考え、判断しながら仕事ですよね。
2014年の秋に、先輩の清水佑介さん(現在は独立し株式会社ねごと設立)にあるプロダクトの情報設計で、多角的にニュースを出すための戦略を手伝ってくれないかと誘われたのが、PR領域に足を踏み入れたきっかけです。
編集一本でやっていくのか、今後は編集・PR・広告横断しながら編集者としてのスキルを生かしていくか、どう考えているかでアドバイスの幅が変わるって言うんですよ(笑)。
どういう意味でしょうか。
僕を育てようとしてくれていたっていうのと、君のこの会社でやりたいこと何かな? って話ですよね。せっかく色々できる環境あるけど、どうする? みたいな。文章書いたり、編集の企画を考えたりっていうのは、すでにとてつもないプロフェッショナルがいるってことは、僕自身もうわかっていたし、何者でもない若者がなんとなく流れでやっているのを見透かされたんでしょう。
編集の仕事をする前から、『POPEYE』立ち上げの本とか読んでいて、こんなバイタリティもないし、自分は別に大したものではないと思っていたので、じゃあ、色々できるようになった方がいいかなあ、と思って、とりあえず全部やります! と答えました。
あと、仕事していく中で生意気な考えも出てくるわけですよ。すでに箱が決まっていてパーツを作るよりも、前提になる企画から自分が考えたい。企業のコミュニケーション施策になると、広告領域と一緒に先輩たちが考えた企画を僕に依頼してくれるわけですが、編集領域は編集者が考えた方がもっとクリティカルなものが作れるんじゃない? みたいな。
そうなると、もう広告コミュニケーションとか、戦略の領域に入っていくしかない。その時は20代半ばだったんですけど、ケトルは社長面談があったので、当時社長だった嶋浩一郎さんと木村健太郎さんに直訴しました。広告もPRも編集もやらせてって!(笑)。清水佑介にそそのかされなかれば、そんな無茶言わなかったと思うんですけど。
そうしたら嶋さんと木村さんはなんて答えたんですか?
怒られるかなとか、まずは目の前の仕事をとか言われると思っていたんですけど、ピュアに「なんでそう思った?」と。で、これはかまさなきゃいけないと思って、エディトリアルで最大限パフォーマンス発揮するんだったら、はじめっから編集の細かいことまでわかってるやつがやった方がいいと思います、で俺できますみたいな。編集も別にわかっているようなレベルじゃないし、狂気の沙汰ですけど、もう勢いですよね。どうかしてますよ。
そしたら、嶋さんも木村さんもクスクス笑い始めて「いいよ、やってみなさい」って。で、先輩たち優しいから、そういうことなら素人にいい経験させてやるかぐらいの感じで、いろんな仕事に誘ってくれて。だから、 はじめはまともに企画書の書き方とかもわかんないけど、見よう見まねでやって、「これじゃ伝わらない」とか「理屈っぽいからもっと簡潔に」とか、アドバイスをもらい続けて今につながっているという。まあ、社長に言っちゃったらやるしかないし。
エディトリアルとPRは密接につながっていて、エディトリアルは大雑把に例えると、メディアという乗り物を作ったり、乗り物体験のためのアクティビティ、つまり情報をどのように加工して乗せるかということを考えたりする仕事じゃないですか。PRは最終的に社会との合意形成ですが、まずは複数の乗り物の乗り方を身につけ、どのメディアがどのようなネタを欲しがっているかが、勘所で分かることが重要なんです。要するに体験づくりは、はじめの構想から最後まで考え抜くことが超重要って話。
特に嶋浩一郎は、編集者であり、クリエイティブディレクターですけど、出自はPRでプロフェッショナルです。だから多分、僕が言っていることは拙くても、言いたいことはわかって、確かにそうねって思ったんだと思いますよ。
(後編へ続く)
1988年生まれ。
クリエイティブ・ディレクター/編集者。フリーランスのライターとして活動後、2013年に博報堂ケトルに入社。2023年にSource McCartney LLC.を設立。
世の中の文脈にフィットまたは先見性を持った戦略、クリエイティブ、情報設計など、企業や行政のコミュニケーション企画を行う。カルチャー誌『ケトル』副編集長などを経験したのち、2021年にブートレグからビジネス&カルチャーブック『tattva』創刊。同誌編集長。受賞歴に日経広告賞部門優秀賞、毎日広告デザイン賞準部門賞など。ATAMI ART GRANT2023レジデンスアーティスト。株式会社横浜グランドインターコンチネンタルホテル戦略室顧問。著書に『カルチュラル・コンピテンシー』がある。