BUG Art Awardのファイナリスト展に出品されている6つの作品はあまりに多様だ。これらに審査を下して最優秀作品を一つ選ぶには、比較に用いる尺度を何らかの仕方で規定する必要があるが、それはあまりに困難であると言わざるを得ない。強いて言えば、「すべての作品が、鑑賞者に何らかの経験を作りだすという企図を共通して持っている」(この共通点は他のすべての現代アートにもあてはまる弱いものであるし、経験を作り出すために制作される事物が現代アートの外側にも無数にあることは言うまでもない)という前提を明確にしたうえで、作品経験の「強度」を比較するという方針はありうるかもしれないが、とはいえ「強度」の内実をいかにして定めるかはここでも明確ではない(特定作家の名を冠して、その作家の作品の経験に近似した経験をもたらす作品を評価するという方針を採用するならともかく)。ゆえに、特定のジャンル(絵画、彫刻、小説、戯曲…)に属する作品のみを対象とし、そのジャンルの内部で蓄積されてきた規範に照らし合わせて巧拙の基準をある程度は定めることができる芸術賞に比して、BUG Art Awardの審査の恣意性が高くなる傾向にあることは否めないだろう。しかし、その審査が出品作家の一年を、ひいては今後の命運を左右しうるのだ。

とはいえ、恣意性を低くするための工夫はもちろんさまざまに認められる。作品外の基準の導入(最終審査会におけるプレゼン・質疑応答の巧拙や、一年後の個展プランの構想など)や、多様なバックグラウンドを持つ5人の審査員の選出などがその例だ。また、審査結果の相対化を図る方向性での工夫も認められる。例えば最終審査会を公開で行うという措置(その様子は今からでもYouTubeで確認することができる)は、鑑賞者を含む人々が審査員のコメントや審査それ自体を批判的に検討する余地を高めるものであった。さらに言えば、審査は会期の途中で行われるので、審査後にそれを踏まえて鑑賞して是非を考えることも可能である。また、展覧会についての文章を審査とは無関係の二人の執筆者に依頼して審査のすぐ後に公開するという方針も、審査において見逃されてしまったかもしれない作品の可能性を引き出すための工夫として評価できるだろう。

ということで執筆者の一人としてのわたしの課題は、審査を相対化することになるたけ役立つ文章を執筆することにある。その課題を果たすべく、わたし自身の経験から出発しつつ、各作品がもたらした/もたらそうとしていたと考えられる経験の特異性ないしは意義を説明することを試みたい。

乾真裕子の≪葛の葉の歌≫は、安倍晴明の出生説話として名高い葛の葉物語を題材とした二画面の映像作品である。乾自身が葛の葉を演じて説話を再現する場面を中心としつつ、その途中で、乾の友人・Leire de Meerが自身のノンバイナリーとしての経験について語るインタビューの場面が挿入される、というものだ。また再現の場面では、片方の画面では再現映像が映されるのに対して、もう片方の画面では、ギターの弾き語りを交えつつ説話を語る乾の映像が映される。

異性愛規範が浸透した社会の只中で疎外感を覚える経験と、人間の中に紛れることができない葛の葉の苦悩。作品全体の企図は、この二つを重ね合わせつつ説話を読解する可能性を提示する点にあった。とはいえ本作の中心的な企図は、説話のテクストを子細に検討したうえで、異性愛規範を撹乱するような読みを、物語に対する新たなる解釈として説得的・客観的に提示することにはないだろう。むしろ、乾とde Meerという二人の読者の個人的な経験に即した読解を、説話それ自体と不可分なものとして伝達することこそが重視されていたのではないだろうか。

自身の経験と密接に結びつく、時に登場人物への深い愛着や共感を伴うような各読者の読解。こうしたどちらかといえば主観的であるといえるようなこうした読解が、読解の対象をその細部まで丹念に検討したうえでなされる(ゆえに内容への内在を徹底しているといえる)読解より粗野なものと見なされ、軽視される傾向にあると考えられる。しかし本作において主観的な読解は、内容と混ざり合ったかたちで、内容と等価なものとして提示されているのだ。インタビューの挿入による再現の中断。周辺にあったもので何とか再現映像を作っているという事実を露呈するような事物(赤子役として用いられるぽぽちゃん人形、「平成」の文字が明確に刻まれたロケ地…)。二つの画面を活かした、乾自身の本人性の露出(物語の外側に立ち、ギターを用いもする語り手は、葛の葉よりはむしろ乾本人を思わせるものとしてある一方で、再現を映す画面と同様の衣装をまとい、化粧をしていて、両者の間に差異はない。鑑賞者はその同一性ゆえに、再現に映る葛の葉を乾本人としても眺めるように促される)。内容と個人的な読解の混淆は、これらの要素によって促進されていたのだ。

彌永ゆり子の《material flow / signal》は、ブルーシートやホースなどとともに様々な種類の映像ディスプレイを雑然と配置した映像インスタレーションである。それぞれの画面が映しているのは、慣れ親しんだお絵かきソフトを用いてインターネット上で発見した画像を描くプロセスの画面録画である。

ポップなイラストから写真と見紛うほどに写実的なものまで、それぞれの映像が示すイメージは多様であった(おそらくは用いられた画像の多様さを反映していたのだろう)。ソフトというひとつのシステムについて、それが相当に幅広い可能性を持っているということはもちろん頭では理解できる。とはいえ、その多様な可能性を一挙に感覚できるようにするこのインスタレーションは一定の驚きをもたらすものになっていた。

またさらに注目すべき点として、用いられていたディスプレイもまた多様であったことを指摘できるだろう。スマートフォンやブラウン管のテレビ、丸形でとても小さなディスプレイなど、われわれが日常生活で接することがあまりないものも含め様々なディスプレイが提示されていたのだ。先ほど確認したように、一つのシステムが有する様々な可能性を展開する運動が本作の中核にあったとすれば、このディスプレイ群には逆方向の運動を認めることができるだろう。つまり、まったく異なるシステムによって構成されていることが明確なディスプレイ群が、それぞれが画面録画を表示するという同一の目的へと収斂し、その点で等しいものとなっているのだ。二つの運動の交差もまた、本作において提示されていたといえるだろう。

近藤拓丸の《botanical capture》においては、様々なものがフラットに提示される。公園や植物園の事物を前に、それに反応するような仕方で描かれたドローングやスケッチ、ドローイングなどから構築された仮想空間(の中を移動する映像)、仮想空間をもとにしてキャンバス上に描かれた絵画、絵画に至る作成プロセスを文字で説明した紙、作品を着想するために書かれた思考のメモ。公園などにおける観察から出発し、さしあたりの完成形としてある絵画へと向かう近藤の制作プロセスが、これらの展示物を通して辿れるようになっているのだ。

こうしたフラットな展示は、固定的な完成形として絵画を提示することから距離を取るものとしてあった。絵画の前段階にあたる展示物たちは、異なる作品に至る潜在的な可能性を無数に含むからだ。例えば映像は、展示されているものとは異なる絵画をこの仮想空間から制作できる可能性を示していた。さらに言えば、発想源のメモから思考を出発させて絵画という形式に帰着するこのプロセスとは異なる作品制作プロセスを考案する余地さえ残していたのだ。

完成形としての絵画とは異なる作品の可能性を前段階から(想像上で)展開するこの作業こそ、本作が鑑賞者に促しているものであった。こうした作品の身振りについて、作品が題材としていた公園などの場との共通性を指摘することもできるかもしれない。それらは、(植物など、人間ではないものも含む)利用者に一定のふるまいを促しつつも、ふるまいを完全に統御することができるわけではない、新たな利用法を見出す余地を常に残す場であるからだ。

宮内由梨の≪プシュケーの帰還≫は、ロボットアームやガーゼなどで構成された一種のキネティックアートである。内部に設置されたアームの動きに連動して、ガーゼの膨らみは不規則に形を変える。またサウンドスピーカーもその内部に設置されており、体内を流れる水のような音を聞くことができる。

照らす明かりが内部にあるロボットアームやサウンドスピーカーを明確に露出させている以上、本作は機械仕掛けの人工物でしかないことは鑑賞者に一瞬にして伝わる。しかしながら、水音が内部で流れ不規則に蠢く、肌に若干近い表面を持つその外観を眺める本作の経験は、人工物の中に生命のようなものを垣間見るよう鑑賞者に促すものであった(その意味で、人間の身体の一部を機能・外見の両面において模す人工物であるロボットアームが主要な部品となっていることは象徴的だ)。

目の前にあるものが人工物であるという事実が意識の前面に押し出されているとき、人はその人工物をたんなる人工物としてしか見ることができない。逆に、人工物であることが分かり切っているものに生命を見て取る経験は、人工物としては見ないようにするというルールへと人間の側が積極的に参与することによってはじめて成立する。あからさまな人工物でありつつ生命を模そうとする本作は、この参与を促すものとしてあったのではないか。

向井ひかりの≪対岸は見えない≫は、各辺が平均的な人間の身長より低い程度の白い直方体の表面に小さな作品群を展開する作品である。鑑賞者は直方体の周囲を移動しながら各面を眺めるよう促される。

上の面を眺めるとき、鑑賞者は砂や切られたストローなどの細やかな事物に目線を向けつつ、それらの事物と同程度までに小さくなった自らの姿を配置された鏡の中に確認する。目線を直方体の高さに合わせて歩きながら事物を眺める経験には、自分の身体が小さくなって向井が展開する世界に取り囲まれつつ歩いているかのような感覚が伴う。姿を映す小さな鏡は、こうした経験を先取りするものとしてあるのだ。さらに言えば、鏡の近くの小さなモニターには、向井が考案した柔らかな装置に体をこすりつける人間が映し出されているが、その人のありようと自分が重なるような感覚がもたらされるのだ。他方で側面に配置されている作品を鑑賞するにあたっては、距離を取って観察するような距離を取って観察するような鑑賞のモードを採用することができる。つまり、一般的なホワイトキューブの白い壁に掛けられた作品に比較的近しい仕方で鑑賞することができるのだ。

本作はこのように、大きく異なる二つの鑑賞のモードを一度に提示する。そしてこうした二つのモードの間の移行や交差こそ、本作が鑑賞者に引き起こすものであったのだ。交差についての一つの例を挙げよう。先述の装置が描かれた絵画が側面にいくつか展示されているが、上の面を鑑賞した後では、ただ距離をとってそれらを鑑賞することに一定の困難が伴うということができるだろう。つまりそれらを、装置に身を委ねるモニターの中の人間と自身を重ねることで覚えた身体感覚について想起することなく眺めることは難しいのではないか。

山田康平の≪Untitled≫は、カラーフィールド・ペインティングを想起させるような大型で横長の絵画である。ほとんどの箇所は茶色がかった赤色で均一に薄塗りされているが、こちらから見て左の辺の中央付近に、緑がかった細く小さな図形が配置されている。形態としては比較的単純で、記憶しやすいものとなっている。

全体を捉えて記憶したのち、鑑賞者は絵画に接近して細部を観察するよう促される。絵画以外のものが何も見えない位置に身を置いて鑑賞するときに視野入るのは、ほとんどの場合、赤一色の平坦な光景だけである。

とはいえ、観察を続けていくなかで気付かされるのは、赤一色の視野を維持することは相当に難しい、ということであった。たとえ緑から遠い右側の位置に静止し、赤い部分に集中して他のものを視野から排除しようとしても、左端の緑色がすぐに見えてしまうのだ。視野に入るときには、自分がいる位置と絵画の左端の間の距離が縮まっているかのような感覚を覚えもする。

自分が想像している以上に視野が広いために、赤だけを見ているつもりでも同時に緑まで見えてしまうのかもしれない。あるいは、先に全体を確認したときに獲得した、「この絵の左端には模様がある」という記憶が錯覚を引き起こしているのかもしれない。ともあれ眼前の対象への集中は妨げられ、鑑賞者は自らの知覚のありように改めて向き合うこととなるのだ。

石田裕己/Yuuki ISHIDA
2001年生まれ。神奈川県出身。
ソロコレクティブ「ペンギンプラネット」を標榜し、展覧会やパフォーマンスを企画するほか、執筆も行う。過去に企画した展覧会に「手なずけるとか手を噛まれるとか」(JUNGLE GYM, 2023年, 兼キュレーション)、パフォーマンスに「てなかま THE LIVE」(アートサロン えん川, 2023年, 兼制作・出演)、執筆テクストに「鑑賞者と芸術がともに思考する作品を求めて。石田裕己評「惑星ザムザ」展」(ウェブ版美術手帖, 2022年)がある。東京大学文学部美学芸術学専修在学中。