「世界に、バグを」というキャッチコピーを目にすると、私はどうしても不穏な企みが頭をよぎる。
バグとはプログラムの穴が現れたり、設計とは異なる動作が生じるという意味だが、今私たちが生きている「世界」というものが何かによってあらかじめあるべき 形に設計されていて、その中に私たちは生きているとしたら、バグは発見され次第直ちに何事もなかったかのように穏当に処理しなくてはならない。ゲームでない限り、バグを許容するような余裕などその世界に生きている私たちにはあるわけがないのだから。
バグの可能性に賭けるということはその意味で、これまで私たちが生きていた世界とは異なる世界に向かう不可逆な変化に賭けるということである。そして私の不穏な企みというのはこの賭けに他ならない。
これは誇大妄想的な芸術に対する幻想なのかもしれない。BUG Art Awardにおいて掲げられている「バグ」というテーマはもっと穏当な意味合いであろう。しかしながら、私はきっと心のどこかで少なからず芸術にそのような可能性をいまだに期待していて、きっとそのような期待を隠し持っているのは私だけではないと思うから言うのである。なぜなら「芸術」という営みがこの世界にまだありうるとするならば、それはきっとどんな世界であれ私たちが生きている世界に逆立する世界を打ち立てる営みに他ならないからである。
ファイナリスト展は今回のコンペティションで選ばれた六人のアーティストによる展示であり、ゆえにこの展示自体が一つの総体を持ったものとして作られたわけではない。しかし、私が展示を見た時にはそれぞれの作品が互いに呼応するような関係性を持っていたのは確かであった。
とりわけ向井ひかりの「対岸は見えない」は今回の展示において重要な意味を持っていたように思う。本作は展示空間全体を構成するような実体を持った結合部でもあり、それぞれの一見異なる作品の対照関係を結び出す鏡面の多面体のような働きをしていて、非常に興味深かった。向井がどこまで意図的に組み立てていたかはここでは差し当たりおいておくとして、このような機能が向井の「対岸は見えない」という作品自体が持つ狙いと地続きの ものとしてあると私は考える。直方体の台を中心に配置された絵画やオブジェクト群によってなるこの作品には、一望して全ての作品を見ることのできる視点はなく、またスケールも統一されていないがために、自然と何度もぐるぐると廻りながら見ることになる。そうしていくうちに作品が周囲の風景を借景として取り込みながら意味を立ち上げていく。最初は何かよくわからなかったオブジェクトも他のオブジェクトと結びついて、自ずと何かに見えてきて作品全体が頭の中に現れる。
回遊し通り抜ける視点を作り出し視線になる。その視線が離れ離れの個々のオブジェクト同士を結びつけ、めいめいの存在に輪郭を与える。「対岸」とはこの視線の違いであり、それは「見えない」が存在する。
山田康平の絵画作品「Untitled」は抽象画と言える作品である。
画面全体が沈みこむような赤の色面で覆われており、その面が切り抜かれ空いた隙間から他の色面がこちらを覗き込むように見える。色面自体がもつ色の深みに惹かれると同時に、しかしそれらそれぞれが薄い一枚の面にも感じられるところにテキスタイルの構成にも似た感覚も覚える。それゆえに山田が自身の作品における「描く」という行為を「隠す」や「覆う」ものに近いということも理解できる。見えるものは見えぬものを内側に抱え込む。見えぬものは、見えるものがあることによって生じる必然である。確かにそれは倫理的な態度ですらある。しかし抽象絵画の発生にはそのような問題がすでに含まれていたはずだ。
ジャンルを問わないコンペティションで一枚の絵画作品が受賞した意味は大きい。絵画に蓄積されてきた思索の歴史を山田がこれからいかに引き受けるのか。重要な課題としてあるだろう。
「プシュケーの帰還」と銘打たれた宮内由梨の作品は硬質な機械式の羽(あるいは鯨のひれ)らしき形態をしたものが薄い人肌のような色をした生地の内側で、機械音を出しながら動く作品である。動く羽らしきものは同時に鯨のヒレのようにも見えて羽ばたいているようにも、もがき引っ掻いているようにも見える。生地の内側に灯された照明が蛹の蠢きを連想させる。一方でそのイメージの強さ━魂(プシュケー)の表象の強さが、キネティックな仕組みを組み込んだ時、プシュケーと言われるものそれ自体からむしろ遠ざかってしまったように感じた。
彌永ゆり子の「material flow / signal」にはインターネットとデジタル環境によって形成された独特な「画像」に対する感覚があった。そして、それはモノに対するフェティッシュとしてインスタレーションに現れていた。一方でインスタレーションを構成する要素が多すぎて、ディスプレイの作品が埋もれたように見えてしまったことは否めない。しかし、小さなディスプレイに映し出されていた映像作品こそが、彌永のデジタルに対する質感を表現することにおいて最も重要な作品であるはずだ。その質感により仔細に触れてみたかった。
近藤拓丸の「botanical capture」は、絵画作品だけでなく制作上の思考のプロセス自体を総体として見せる展示だった。近藤は3DCGにおける仮想空間をフィールドワークするように制作をしている。
例えばゲームをしているとバグが生じ、今まで見ていた世界が壊れ、別の世界がせり出して現れる。あるいはそれは仮想空間の基底面が見える瞬間でもあり、言い換えればプレイヤーの認知を成立させていたものが現れる瞬間でもある。近藤の作品はそのようなものに視点が向けられているように感じられ興味深かった。一方で、メモやプロジェクターで映し出された仮想空間の方が絵画作品より目をひいてしまうという点において、絵画作品の存在が希薄になってしまったと私は感じた。最終的に絵画に結実させるならば、実験と思索を経てそこから今までにない新しい絵画が生まれることに賭けるべきだ。
乾真裕子の「葛の葉の歌」は、「葛の葉伝説」という狐が人間の男性と結婚する民話を下敷きに、ジェンダー・クィア論的な視点から人間と結婚した狐の存在の物語りを換骨奪胎した作品である。
人にも動物にも属性というものがある。そして多くの場合、属性によって分別され属性ごとの共同体であったり集団を形成する。しかし、複数の属性を持つ場合、両方の集団に属することができるわけではない。ゆえに本作において葛の葉は、「狐」であり「人間」でもあるのではなく、「狐」でもなく「人間」でもない、俗世に存在するあらゆる属性から除外されてしまった存在である。葛の葉は自分自身が何者であるかは口にすることはできない。表向きに存在を偽らなくては(本当は)帰る場所を失ってしまうのだから。そしてその帰る場所を失ってしまった葛の葉を「かたる」本作はそれ故に、ノンバイナリーの当事者だけに向けられたものではなく、俗世から与えられる属性という分別に疎外感を感じる人間の孤独に向けられた歌に聴こえた。既存のジャンルを超えた表現としての「かたり」を作り出そうとする試みに共感を覚えた。
限られた文字数ゆえ、語れないこともあった。しかし今回ファイナリストに残った全員に対して、時代を共有するものとして今の私にできる限りの誠実さを以て私見を述べたつもりである。
最後に私は、今回のファイナリストが全員「不穏分子」であって欲しいと願う。
2000年生まれ。東京藝術大学 先端芸術表現科 在籍。
2016年『百鬼夜行』が第66回学展大賞を受賞。2022年学展特別展示「UNKNOWN VISITORS」のキュレーターおよび出展作家として参加。2023年岸裕真 個展「The Frankenstein Papers」にコ・キュレーターとして参加。他にも絵画作品などの制作から文章の執筆などを通し幅広く活動。