からこの企画の話を聞いたのは、2025年9月だった。当初の構想は、医療的ケア児が紙芝居を作り、それを自分の声で読み、その音声に合わせて養育者がドラァグクイーンとなってリップシンクする、というものだった。

最初は「なんだそりゃ」「大変そうだな」と思った。しかし、もから「相談に乗ってほしい」「ドラァグクイーン監修をしてほしい」と頼まれたとき、二つ返事で引き受けた。5年前からは褐色細胞腫という希少がんを患い、闘病していた。本人から「最後の仕事になると思っている」と言われると、断るという選択肢はなかった。

そういえば、かなり昔、が「シングルマザーとゲイをつなげよう」という交流会を企画したことがあった。シングルマザーと子ども、そしてゲイがつながることで、子育ての負担や孤独を少し軽くできるのではないか。ゲイにとっても、血縁でも地縁でもない家族のような関係が生まれるのではないかという発想から生まれた企画だった。当時はずいぶん唐突にも感じたが、その発想が『ドゥーリアのボールルーム』にもつながっているように思う。

私は何の根拠もなく漠然と、は本番が終わるまでは生きているだろうと思っていた。しかし今年1月、この企画の打ち合わせのために上京した際に倒れ、緊急入院した頃から、の体調は急激に悪化し、4月19日に亡くなった。私は、亡くなる数時間前までLINEで業務連絡をしていたため、訃報をにわかには信じられなかった。

その時点で、パフォーマンス監修を関根信一さんが、会場に展示する写真の撮影を菅野恒平さんが、動画の撮影を拔井亮太郎さんが、植物(マツバラン)の管理と衣装制作の補助を森潔さんが、会場設計を特定非営利活動法人チア・アートさんが、アクセシビリティに関するアドバイスを五十嵐純子さんが、それぞれ担当することが決まっており、打合せを進めていたが、誰もが思い描いていた企画の全体像を完全には把握できていなかった。企画者が準備の途中で急逝するという前代未聞の出来事に、BUGの担当者の方々も、さぞ驚き、困惑されたことだろう。それでも企画は中止されなかった。この企画はの遺作のようなものでもあり、私含め全員が、当たり前のように「やるしかない」と思っていた。

 それから約2か月、私たちは「なら、これを望んだのではないか」「ここは、こう考えていたのではないか」と、それぞれに記憶と資料を持ち寄り、想像したことを共有しながら、手探りで作業を進めていった。

私は、オンラインのフリンジ企画『女王様はご立腹~ドラァグクイーン エスムラルダの歩み~』で、自身の半生や「ドラァグクイーンとは何か」について語った。またパフォーマンスを行うミナアピオンさん、ピンクノナースフクスキーさん、キセツカニューラさんのお三方に、メイクの仕方などを伝え、衣装やメイクの相談に乗った。しかし、お三方はどんどん自己流のメイクを作り上げていった。事前にきちんとパフォーマンスのリハーサルができたのは、パフォーマンス初体験のミナアピオンさんだけだったにもかかわらず、お三方とも本番では堂に入ったパフォーマンスを見せ、そのことにまず驚き、感心した。

なお、パフォーマンス内容は当初の予定から大きく変わり、お子さんにまつわるさまざまな音声に合わせて、お三方がリップシンクなどをすることになったが、それぞれの人柄や思い、経験が明確に表れていて、いずれも素晴らしかった。見ているうちに、お三方それぞれが経験してきたであろう辛さを想像し、つい勝手に同情しそうになる瞬間もあったが、「同情によって理解したつもりになるのは違う」とも思った。

特にパフォーマンスが行われた日は、会場に多くのお客さまが集まり、写真や動画、マツバランの展示なども好評だった。それがの頭の中にあった完成形と同じものだったのかはわからない。しかし、誰も正解を持たない中で、なら何を望むかを考え、立場の異なる人たちが言葉を交わし、迷いながら手を動かし続けた。その制作過程そのものに価値があったようにも思える。



エスムラルダ/Esmralda
ドラァグクイーン、ライター、脚本家、歌手、俳優

1972年生まれ。1994年よりドラァグクイーンとして各種イベント、メディア、舞台公演等に出
演し、大学や自治体等での講演活動も行っている。2002年、東京都のヘブンアーティスト(大
道芸人公認制度)ライセンスを取得。2018年には及川眠子・中崎英也プロデュースによるドラ
ァグクイーン・ディーヴァ・ユニット「八方不美人」のメンバーとして歌手デビュー。また
2012年、テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞に本名で応募した作品が優秀賞受賞。以後、ドラ
マ・映画・舞台の脚本を手がける。2026年、脚本・作詞を手がけたミュージカル『檸檬SOUR』が、「Musical Awards Tokyo2026」のミニシアター賞を受賞。