ホーム・ケアリスト

「家」でのケアに従事している方々を意味する「ホーム・ケアリスト」という新たな言葉を提案します。家でのケアには、それぞれの家の独自のルールと専門性があります。社会ではなかなか垣間見ることができない、家でのケアのスペシャリストとして、全国から個々の物語を紡いでいただきます。

   

今回の創作に参加してみて

本作品に参加したホーム・ケアリストの皆さんの感想をご紹介します。


一度、会場に伺ったのですが、その時、「ケアの業務連絡」のなかに、私のコールを受電したと思われる方が、「今書けることはない」と書かれていたり、電話を切ったりすることが想定されていない(ように見える)ことについて、批判的に言及されていたものを読んだとき、とても嬉しいと感じました。全体としては、「ケア」についての興味や意識が整理されたことが良かったこととしてあります。ほかには、自分の創作の場における関わり方の癖が出てしまったことや、ナラティブパートナーの方と定期的にミーティングをしていたのですが、上手く使うまでに時間がかかってしまったこと、などがありました。


ばおびーちゃん

いま起こっている動き=過程を、その常態を切り取ってコールにしたい、でもどうやって?ずっとモヤモヤしていた。コールしていくうちに、別の言いたいことが顔を見せはじめたり、もう言わなくていいことに変わったり…。会場の雰囲気が伝わってきて何かにドライブがかかる。新しい景色が見えてくる。新しくコールになったものをNPに送ってみる。修正を見届けてもらい、新しいコールを話してみる。ついに最終日。もう少しSCTと言う温泉にみんなで浸かっていたい。そんな7/21でした。


佐々木義彦

福祉関係の仕事の長い私には、この手のネタは尽きません。(専門職としての自負もありますので。)気の利いた話で人を感動させることは簡単です。しかし、最初に書いた話にナラティブパートナーの萩原さんから、厳しい口調で「これは佐々木さんが書かないといけない話なのか?」と詰問されました。今回の取り組みで強く学んだことは、作品をつくることではなく、自分は何を表現したいのか?何を伝えたいのか?を考え抜くことでした。それは尋常じゃないほど自分と向き合うことでした。自分の心の中の腐った油や見栄を捨てて自分の中の本当の自分をさらけ出すことに身を削りました。これが「表現」するということなのかなと思いました。
それから、ガツンと心に響く作品を披露くださったみなさんとすべての関係者のみなさんに心から感謝します。私にとって素晴らしい出会いと学びの機会でした。

※現実のケアは、やはり立場が違うと見える世界も感じることも違いますので、「共感!共感!」と言っても、当事者や家族の気持ちは、第三者には意外と伝わりません。経験豊富で患者や家族を諭す優しい医師、看護師でも、所詮どこまでいっても他人事ですから。経験が共感につながるかどうかは微妙ですね。(俺はすごいと勘違いして語る人は多い。)しかし、だからこそ、「表現」という手段は難しくても、意味あるものだなと実感しています。「自分を伝えること」への執念、テレビや映画とは違う、生の舞台の凄みを感じました。


重田拓成

サテライトコールシアターを終えて

自分一人だけの創作じゃわからなかったと思います。
認知症の母との暮らしや、母が生きていたことを伝えたいという気持ちで参加したけれど、
本当は俺はただ、ただ天国へ旅立ったお母さんと話がしたかった。「元気だよ」って、「身体には気をつけてね」って伝えたいとか、
これまでの答え合わせをしたかった。それだけなんだと。
自分一人だけじゃわからなかった自分に出会えた気がします。
そしてこの上演を通してほんの少しかもしれないけど、それも勘違いかもしれないけど、お母さんに会えた気がしました。
お母さんの声が聴こえた気がしました。
やっぱ勘違いかな。
なぁどう思う?おかん。


愉美

親の老いと画家である父のケアを綴る予定が、父の緊急入院、末期がん、他界と、現実が想像以上で苦しみました。本番が始まるまで何を表現すべきか迷いましたが、回を重ねるごとに他のホーム・ケアリストの物語に触発され、舞台があるBUGを訪れてスタッフや観客と交流すると変化が起きました。しっくりこないところ、伝えたいところが見えてきて、毎回自分の中の何かが動くのです。サテライト・コール・シアターが私のケアの物語の舞台になったのだと思います。父のモットー「FREE・FRESH・FINE」の境地はこういうことなのかもしれません。素晴らしい体験をありがとうございました。関わって下さったすべての方に感謝いたします。


よーよー

「ホーム・ケアリスト」と自分は呼ばれるのかしら?と思いながら応募しました。
母親として嫁として、娘として、家族に必要な手助けをするのは当たり前と思って駆け抜けるように40年程を生きてきました。
「わからないだろうなあ」と思いつつ、「想像が膨らむような…風景が目に浮かぶような…」とのアドバイスをもらいながら10分間にそれをまとめる作業は興味深く、その長さだからこそ聞いてもらえるのだろうとも納得しながら自分のこれまでを振り返らせてもらいました。そこにあるのは“ケア”と呼ばれることなのだと何度も語らせてもらいながら自分に言い聞かせてもいるような不思議な7月を過ごしました。
そしてまた同じように生活は続いています。


杉浦一基

しんどい時にたくさん倚りかからせてもらった南木佳士の文章のようなものを目指してやってみたものの、全く違うし倚りかかるにはぐらぐらで頼りないものしかできませんでした!つくるのって難しい!でも、何かしら構築することを放棄しないでやり続けられたのは良かったです。これをきっかけに、何かしらまたつくりたいです。いまだに何か嘘をついている感覚があります。ケアは素晴らしい、ケアは痛い、それはきっとそうなのだけど、「ある側面でケアは、小さな支配だと思います。」とメモったその先を頑張って書きたいなと思っています。とはいえ面白かったし楽しかった!みなさんありがとうございました!


ゆめ

ぐるぐると一人で考えていた言葉を、
かのこさんに聞いてもらって、文章にまとめて、知らない誰かに聞いてもらう。
どんどん話していつの間にか言葉は固まって、ぽんと丸の内に置いてきた。
私の言葉が遠くで私を見つめている。私は別れを告げて新しい言葉と出会います。
「ゆめさんは、ゆめさんをケアすることを考えてみましょう」
と、かのこさんに言われてからずっと考えていた。私のケアってなんだ?
ある日、店で抱き枕を見て、これだ!と勇気を出して買ったら、眠れるようになった。
浴衣を見て、よしこれもだ!と買って、一人で着付けをするようになった。
夫に本音を告白してもいいけど、全部忘れてもいいかもしれない。
忘れられないものだけ取っておこう。いっぱい抱えておくのはよそう。
父のことや子供のことをホーム・ケアリストの方々と、あるある!と言いながら聞けたり話せたことで寂しくなくなりました。
そんな時間でした。
ありがとうございました。


nao tanigaki

今回参加したのは、誤解を恐れずにいうと、育児における贖罪のような気持ちが始まりの種でした。

子供と過ごす上で出てくる自分の灰汁のような部分をどうしてよいものかと……今考えるといろいろと手放して、化け物みたいな自分ごとどこかに逃がしてしまいたかったのかもしれません。

そんな風に悶々とする中、本企画と出会いました。

主宰の竹中さん、ナラティブパートナーの南野さん、関係者の方々に全てを受けとめてもらいながら、共に物語をつくり、誰かに電話をかける新たな日常。

自分の中で何かが完結したわけではなく、新たな感覚を得たような。そして、私以外の誰かの痛みや孤独や物語を想像することを諦めてはいけないと、少し背が伸びたような、

そんな尊い日々でした。


南雲由子

サテライト・コール・シアターがあるとき/ないとき
夢だったかしらと思うほど、日常が始まる。形跡を探すが、毎日開いた自分の手書きの台本だけ、違いは毎日10分のzoomだけ。期せずして参議院選挙と重なった3週間、私は毎日「電話」をかけた。だいたい寝室から、時々は駅のテレブースや車の中から。

ナラティブパートナーの佐々木さんとの6回は、4回まで全く書かず、でもいつもは他人にしない話もちょっとした。途中で2年ぶりにマイクを持つ機会があって、雨の東京駅前で演説している原稿を書いた。広くみんなに話す部分と、ヒソヒソと誰かに話す部分が混在していたので、選挙カーに変えた。佐々木さんの編集は見事、指摘の通りに少し変えるだけで、文章はどんどん変わった。
会期が始まってからも、最初の会場とのやり取りは、竹中さんと佐藤さんと何度も悩んだ。悩んでよかった。会期後半は、血が出てる電話のラストに集中できるようになった。

私はケアをしている、という輪郭を、この演劇で初めてなぞった気がしている。あぁ、私はケアをしていたんだな。ちょっと血が出てる部分もあったんだな、と。過度に美化して後が辛いという感覚も、話しすぎた後悔もなくて、前よりほんの少しだけ確かに、日常は続く。


ともよ

説明会、ナラティブ・パートナーの萩原さんとのセッション、遠隔での本番参加まで、全体が稀有な体験でした。起こりうる摩擦や心の反応へのさまざまな配慮のおかげで、安心して関わることができました。途中、父の施設入所が決まって在宅介護に終止符が打たれるタイミングと重なり執筆が進まない中、萩原さんの導きで、箇条書きの伝達文の「生活史」が脚本になりうることを知った衝撃は大きかったです。萩原さんが読み聞かせてくれた時の驚きは印象深く、構成もスタイルも斬新な他の方々の作品を聴いて怯みそうになりましたが、その時の新鮮な驚きがあったから「私はコレを読み続けるのだ」と心を定めることができました。普段と異なる視点で「ケア」を捉えるまたとない機会になりました。


むさし

日常のいろいろな旅(物理的なものでさえ)は忘れゆくものだけど、さいきん見たとあるトーク動画で哲学者の人(東浩紀氏)が言っていたのは、今の情報化時代に物理的な旅はいいぞ、ってこと。今回の創作企画はすべてオンラインで…ほとんど(まれに地元の外で)自宅の自室から行ったけど、形が珍しい旅になった。
本番会場の現地に一度も行っていないのに(これまでにここBUGも訪れたことがないまま…すみません…)、本番期間を終えた懐かしい場所になった。「存在しない記憶」とでもいえるような懐かしさ。自分にとってかつての職場や自宅での福祉の思い出も、創作の思い出も、そんな懐かしさをたたえていくだろう。
訪れてくれたみなさん、ありがとうございます。