本事業は、これからのアートセンターを模索する上で、主に三点において示唆に富む取り組みだ。第一に、組織内部で企画と運営を完結せず、外部のキュレーターやアートワーカーを積極的に招き入れ協働すること。第二に、協働を三年という長期で継続し、関係を深化させていくこと。第三に、毎年展覧会を開催することで課題と成果を蓄積し、プログラムを少しずつ改変していくこと。継続によって変化や新たな展開を導こうとする運営構造が、非常に今日的である。

そのうえでバグスクールは、「展覧会」という誰もが理解できる形式を前提としつつ、以下三点が大きな特徴となっている。

1)参加型プログラムと作品購入の同居
2)アーティストの生活も見据えた幅広い「支援」の模索
3)作品や展示を限定も拡張もしうる空間設計

この三要素は、バグスクールが既存の学校教育に対するオルタナティブであろうとする意思を体現するものだ。通常学校では、作品を購入するという芸術との関わり方に出会うことはないし、時には売買は批判の対象ともなる。また、アーティストとしてどうやったら生きていけるのかなども学校教育から学ぶことは難しい。そんななかで、アートと関わり生きていくことを実践的に学ぶ機会がここにある。かつてイヴァン・イリイチは「価値の代わりに制度によるサービスを受け入れる」ように制度の奴隷となることを学校化として危惧し、自律的であるとともに共に支える環境の重要性を説き、社会の「脱学校化」を提唱した(注1)。既存の学校がますます制度化・鈍化していくなかで、制度に取り込まれない「脱学校」的な学びの場は現在希求されているだろう。

展覧会紹介には「『バグスクール』はグループ展×参加型プログラム×作品購入を組み合わせたアートプロジェクトです」とさらりと書かれているが、参加型プログラムと購入の両方を同等に重視する展覧会設計は容易ではない。参加型といっても、制作プロセスへの参加、作品理解を深める学びの場への参加、アーティストの技術や思考の一端を共有する機会への参加など、形式は多様である。本展の参加型プログラムは、アーティストや展覧会関係者の思考や実践に触発され、ともに考えるワークショップやトークが中心となっている。ただし、参加者が「技術」や「答え」を得るというより、アーティストたちと時間を共有することで、問いを見出すことや自発的に考えることを参加者に促す設計だ。会期約40日という決して長くない期間に、30近い参加型プログラムを実施すること自体が、本プロジェクトの態度をよくあらわしている。

また、販売や購入につながりやすい作品を制作しているわけではないアーティストも多いなか、鑑賞者が購入できる作品やアイテムを全作家が生み出したことも特記すべきだろう。そもそも「売買」を介さずにこの世界で生きていくことは極めて困難であるとともに、「買う」行為は現代社会において比較的ハードルの低い参加の方法であり、ひとつの支援のかたちでもある。キュレーターの池田佳穂が高円寺の素人の乱(注2)に深くコミットしてきた経験は、今回の作品販売の仕組みにも、少なからず影響しているに違いない。公立文化施設では制度設計や「公共」理解の枠組みが硬直し、支援のつもりが搾取へと転じる危うさも抱えうる。その点、BUGがいわゆる公立機関とは異なる組織形態と理念を持つこと自体が、この取り組みを可能にする背景であり、アーティストや社会への支援にもつながっていることは見逃せない。多彩なラーニングプログラムと作品販売は、観客や参加者の声を直接アーティストに届ける回路としても機能していただろう。

これまで三回実施してきたバグスクールは、空間の設えが毎回特徴的だ。第2回「野生の都市」では大きなスロープが設置され、それを前提としてアーティストたちが作品を展開した(注3)。第3回となる今回は、一見シンプルな空間で、前回のように作品に強く影響する空間要素は見当たらない。各作家の領域の区切りとして、通常は仮設壁の骨組みとして用いられる軽量鉄骨下地が剥き出しのまま展開され、必要な部分にはごく限定的に面が設置されている。BUGのカフェと展示室を分ける既存壁も、カフェ側には展示壁裏面や軽量鉄骨が露出しており、空間全体のトーンと馴染んでいる。作家個別の空間を尊重しつつ、区切りすぎず視線もなるべく通すことで、全体に開放感と親密さが生まれる。小さな店が集まるマーケットのような楽しげな空気もある。歴史的に「市(いち)」は既存の権力関係から解放される自由な場として機能してきたし(注4)、そのイメージが作品販売とも相まって、展示空間をより開かれた場へと導く。さらにラーニングスペースが加わることで、どこか家のようにくつろげる感覚も立ち上がる。

このような展覧会実現の背後には無数の対話と交渉がある。BUGの運営チームやキュレーターと、空間設計を担当した内海皓平との対話はもちろん、参加作家の理解がなければこのかたちは成立しない。あくまで想像だが、池田は運営チーム、建築家、作家のあいだに立ち、濃密な交渉を重ねて結果的にこの展示を実現したのだろう。つまり、ある程度の構想はあったはずだが、完成形を先に固定するというより、対話を積み重ね、作家の意図を可能な限り尊重した結果として、このかたちに着地したのではないか。強いディレクションで統合された場というより、それぞれの声を聞き取りつつ「よい塩梅」に落とし込まれた調整と交渉の産物として、展覧会の場が立ち上がっているように感じる。決して広くはない空間で7名の作品をある程度クリアに分節しつつ、交わる地点も設ける共存のかたちは容易ではない。その点で、キュレーションの意識が行き届いている。

本展では、各作家がこの展覧会のために「まったく新しいこと」に挑戦したというより、それぞれの実践の延長上で「いま、やるべきこと」を実現したように思われる。だから無理をしている感じがあまりしないのだ。

Aokidは、東京という都市を触知する方法として、身体を動かし絵を描き、日々この場所にアプローチしながら作品を更新し続けた。観客は会場を散策するだけで多くの発見があり、縦横無尽に広がる身体の痕跡や意識を、作品を追うことで受け取ることができるに違いない。

タツルハタヤマは、自らの作品を「布を用いた絵画」と定義する。布による描画行為を絵画と呼ぶこと自体が、既存の絵画観やヒエラルキーへの批評的態度となっており、若い世代の非欧米圏の作家らしい意思表示でもある。色鮮やかな布のコラージュによって描き出される絵画と、端々に添えられた言葉から、何気ないものへの作家の繊細な意識が浮かび上がる。

芦川瑞季は、展示スペースを自由に走る白い立体的なラインが目を引く。平面作品である版画が芦川の実践のベースにあるため、立体を加えることは装飾へと滑り落ちる危うさも孕むが、版画行為を少し自由に捉え、立体的な場へと展開していく態度は挑戦的であった。版表現に向き合いつつ、その秩序や法則から逸脱しようとする意識は、今後の更なる探求が待ち遠しい。

八木恵梨は既存の白壁も活用しつつ、濃い茶系の木質感のある面を二箇所に設け、テーブルも配置するなど空間に手を入れたうえで、絵画を中心に据えつつ、半魚人の手が中空からテーブルへ落下する作品なども展開した。シュルレアリスムで強く意識された通常は出会うはずがないもの同士の出会いは創造の基本であるが、半魚人と身近な社会の諸問題を接続する連想と創作は、参加型プログラムを通じてより豊かに共有されたに違いない。

優美な曲線と深い奥行きをもつ色彩が特徴的なKANOKO TAKAYAは、プレイグラウンドのようにも祈りの場のようにも感じられる、心安らぐ空間を生み出した。落ち着いた黄色の床面は安心感を与えるだろう。背の高い崇拝の対象とも見えそうな立体と横たわる柔らかな布のオブジェの親密さは対照的な関係を成し、絵画にもレリーフにも見える半平面作品を加えることで、全体が見事に調和している。

土や火が重要な構成要素となる坂本森海は、陶芸する行為や過程、そしてその延長にある生活のかたちを模索する。インド東北部ナガランドを訪れた経験と、その日常食であるナガカレーをつくることやナガ出身の人との対話から、生きることと食べること、生き物を殺すこと——それらの円環の一部を成す私たちの生と表現へと思いを巡らせる場を生む。

グラフィックデザイナーであり、採集者・プリンターとして自ら採集したものを用いた印刷物制作にも取り組む𠮷田勝信は、光を捉えて像を定着させる写真の原理に着目し、BUG内にカメラ・オブスクラを多数設置した。カメラが都市を眺め、捉え続けることで、終わりなく連なる瞬間の連続を提示する行為は、「モーメントスケープ(瞬間の風景)」への応答となっている。また、作家の身体がここになくても都市を撮る=採る(shot)ことを続ける在り方は、採集者らしい方法でもある。

各作家の作品や活動を記述してみると、それぞれにバラバラである。だが、それぞれの技術や素材、手法を介して「生きること」を考え、それを他者と共有する場としてバグスクールに積極的に関わり、展示と参加型プログラム、販売に真摯に向き合うことで、各人のモーメントスケープを提示し、展覧会を豊かなものにしている。

ところで、本展のウェブアーカイブの充実は特記すべきものだ。BUGがアートセンターとしてオンラインアーカイブを重視しているのはもちろんだが、本プロジェクトでは運営アシスタントとして参加する山下港が、ほぼすべての参加型プログラムのレポートを簡潔で的確に記している。スクール、つまり学校は、なるべく多くの人に開かれていること、関わりたい人への関わりしろが多様であること、そして「いつでも学べる」ことが求められる。バグスクールは参加型プログラムが多彩で多くが無料であるだけでなく、写真や映像、テキストによる丁寧なレポートによって、ここに来ることのできない人にも開かれたスクールであろうとする態度がよく伝わる。

イリイチは事物、規範、仲間および年長者を学習に必要な四つの資源とし、学びの場は「すぐ近くにいない仲間や目上の人々をも利用できるようになる公共の広場」(注5)であるべきと主張し、誰もがアクセスできることの重要性を繰り返し語った。本事業のアーカイブへの意思は、イリイチが提唱する脱学校化された学校の姿と重なるし、それはアートセンターに求められている姿とも言えるだろう。本展は、社会教育施設に分類されるアートセンターが、本質的に「誰もに開放された学びの場」であらねばならないという態度を提起する重要な取り組みであると、改めて実感している。


注1 イヴァン・イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』、東京創元社(現代社会科学叢書)、1977年、13p。

注2 素人の乱は2000年代以降、東京・高円寺を拠点に展開してきたリサイクルショップ/カフェ/イベントスペース等の活動体。運営者の松本哉を中心に、生活実践と社会運動、場づくりが交差する活動として知られる。

注3 バグスクール2024:野生の都市。2024年12月18日(水)– 2025年2月2日(日) https://bug.art/exhibition/bugschool-2024/

注4 市場を「無縁」や「公界」といった概念と結びつけて論じたものとして、網野善彦著『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和(増補)』(平凡社ライブラリー、1996年[1978年初出])や阿部謹也著『中世の星のもとで』(ちくま学芸文庫、2010年)などが参照点となる。

注5 イヴァン・イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』、東京創元社(現代社会科学叢書)、1977年、142p。



服部浩之/Hiroyuki HATTORI
青森公立大学 国際芸術センター青森[ACAC]館長

早稲田大学大学院修了(建築学)後、国際芸術センター青森などでアーティスト・イン・レジデンスを中心に展覧会やアートプロジェクトの企画運営に従事する。フリーランスを経て、秋田公立美術大学や東京藝術大学等で芸術教育に携わる。公共性・地域・横断性等を意識し様々な表現者との協働を軸にしたプロジェクトを展開。近年の携わる企画に第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」(2019年)、「200年をたがやす」(2021年、秋田市文化創造館)、アートサイト名古屋城(2023年〜)がある。ここ数年は、地域固有の民具や民俗資料などを芸術資源として活用し、新たな芸術表現を見出すプロジェクトを探求している。