第1回BUG Art Award 公開最終審査レポート

(2024/3/1 公開)

作品ジャンル不問、制作活動年数10年以下のアーティストを対象に行われるアワード「BUG Art Award」。その1回目の公開最終審査が、2月6日(火)にアートセンター「BUG」で行われました。

審査は、前身の「1_WALL」の流れを引き継ぎ、1次審査、2次審査を通過した6名のファイナリストによるグループ展を踏まえた上で、各作家によるプレゼンテーションの後に、審査員からの質疑。ディスカッションを経て各審査員の投票によって、グランプリを決定という流れで行われました。

当日は、審査会の様子をライブ配信でお届けしましたが、本レポートは最終審査会の様子を、ポイントを絞ってお伝えします。ライブ配信を見逃してしまった方はもちろん、審査会を改めて振り返ってみたい、次回のアワードにチャレンジするために参考にしたい、と考えていらっしゃる方もぜひ、ご覧いただければと思います。

(レポート執筆:ライター 佐藤 摩耶)

ファイナリスト

乾真裕子
彌永ゆり子
近藤拓丸
宮内由梨
向井ひかり
山田康平

※プレゼンテーション順・敬称略

審査員

内海潤也(石橋財団アーティゾン美術館学芸員)

菊地敦己(アートディレクター、グラフィックデザイナー)

たかくらかずき(アーティスト)

中川千恵子(十和田市現代美術館キュレーター)

横山由季子(東京国立近代美術館研究員)

 

※五十音順・敬称略

ファイナリストと審査員が会場に集い、いよいよ「BUG Art Award」の公開最終審査がスタート。

ファイナリスト6名によるプレゼンテーションとそれに対する質疑応答の時間が始まりました。

乾真裕子「葛の葉の歌」

 

日本民話や昔話をフェミニズムやクィアの視点から再構築するという作品を制作してきた。今回、元にした題材「葛の葉伝説」は大阪府和泉市に伝わるもので、葛の葉という狐が人間の男性と結婚し、子どもを産んで森へ帰るというもの。主に北陸地方で活動していた盲目の女性旅芸人である瞽女が残した「葛の葉子別れ」という歌から、狐でも人間でもない葛の葉という存在を見出した。それに加えて、女性でもない男性でもないノンバイナリーのアイデンティティを生きる友人のインタビューを合わせ、作品を構築。2チャンネルにしたのは、語り手は誰かということを考えたかったから。ファイナリスト展では、鑑賞者がいかに作品に入り込むことができるかを考え、展示を行った。グランプリ個展では、東京という土地について考えたいと思っている。古書店で見つけた書物、斎藤真一著『明治吉原細見記』に貼られていた切り抜き記事などから、遊女、慰安婦、養蚕業、製糸業が繋がっていることに気づく。それらは全て、周辺から中心地へという構造を持つ。そのような視点から、東京という土地で東京を問い直す作品を制作する予定。歴史から取りこぼされた無数の人々の声を聞き、作品を通してその声を世の中へ届けたい。

Q.中川「葛の葉を自分自身で演じたことで、乾さん自身のどういった部分を表現したかったのか?」

A.乾「映像の中で着物を脱ぐシーンがあるが、私自身と葛の葉を重ね、普段取り繕っているものや抑えこんでいる気持ちなどを解放するような思いを表現した」

 

Q.たかくら「着物を脱いだ後、その下には人間の女性の着物を着ていたが、その意味は?」

A.乾「これは、向かって右手の映像に出てくる語り手と同じ着物。その人物が将来の葛の葉なのか、作家自身なのか、はたまた語り手なのか。葛の葉の存在が最後はわからなくなり、鑑賞者への問いかけになるような仕掛けにしたかったという理由です」

 

Q.菊地「葛の葉の物語と、ノンバイナリーの友人の話は、どういう関係にある?」

A.乾「葛の葉の伝説はさまざまな文献に残っているが、葛の葉が森へ帰った後の話は残されていない。そのどこにも属さない葛の葉の存在を、ポジティブに描きたかった。なので、今の時代にどこにも属さない選択肢を選ぶノンバイナリーの友人の存在と結びつけられたらと考えた」

 

Q.横山「歌が映像の核だと思うのだが、乾さんの作品では毎回取り入れている?」

A.乾「歌は、私の作品の核となる要素。なぜ歌なのかというと、身体を通して発せられるものであることや、私にしか出せない声が出ること、肉体的に納得ができる行為であることが理由だ」

彌永ゆり子「material flow / signal」

 

制作を始めた初期から、デジタルで描いた絵をどのように見せれば美術に昇華できるかというテーマで制作を行っている。パソコンで絵を描くことが日常の中にあり、ネット黎明期に未知のものに心を動かされていた経験は、今も制作の原動力になっている。最近ではネットの普及によってものを手に入れることは、ネット上で気に入ったイメージを見ることと近い感覚になっていて、不思議に感じる。子どもの頃の遊びの延長でありつつ、ネットと密接に生きてきた自分自身の今昔の視点と、日々進化していくテクノロジーを含め、ネット上で見つけた工業製品、園芸製品を取り入れる試みを行っている。ファイナリスト展では、初めてインスタレーションに挑戦した。デジタル、工業製品などのそれだけでは唯一性を保てないものを合わせることで独特な作品となり、人の目を惹くところに私自身は面白さを感じていて、美術史の流れにおいても、自分にしかできない表現であると思っている。グランプリ個展では、そのために何ができるかを考え、ブラウン管やディスプレイなどを用い、過去から未来への道筋をつくりたい。自分ができることを増やしながら、自分でも見たことのない新しい自分の表現を見つけ出したいと考えている。

Q.菊地「デジタルで描かれた絵は、それ自体では美術として成立しないと考えている?」

A.彌永「可能かもしれないが、難しいと思っている。静止画のままだとアナログで描かれた絵との違いが伝わりにくい。なので、今回はデジタルで描いた絵の描画過程も作品の一部として見せる試みも取り入れている」

 

Q.菊地「描画過程を見せる作品では、時々塗りつぶしツールを使っている。その辺りはどういった感覚で取り入れているのか?」

A.彌永「パソコンで描いた絵だからこその絵にしたいと考えているので、あえてパソコンのお絵描きソフトの機能の一つである塗りつぶしツールを使い、その様子も見せようと試みた」

 

Q.中川「額はどういう効果を狙っているのか?」

A.彌永「映像作品として見てほしいというよりは、美術作品として、動くオブジェとして鑑賞者の方に見てほしいという思いから」

 

Q.たかくら「美術史の流れにおいて自分にしかできないことがあるということだが、インスタレーションとして取っ散らかしたような作品をつくる作家との違いは、どういったところだと考えている?」

A.「私が生きるこの現代でないと見えない姿であることが、その違いである。今の自分自身の立ち位置や視点、インターネットを介しているところなど」

近藤拓丸「botanical capture」

 

何気ない日常の中で、突然妙なイメージが降ってくることがある。例えば、近所を散歩していて、木にフェンスが食い込んでいる姿を見た時、公園の遊具に植物が絡まっている姿を見た時。しかし、そのイメージはとても繊細で歩いているうちに消えてしまうので、常にメモ帳を持ち歩き、描き溜めるようにしている。それらを家で整理していると、どうやら自分は自然と人工物の間に見えないものを感じ取っていて、それを表現しようとしているのではないかと気づく。私は、植物自体には動く能力がない代わりに、動物を魅了して種子を運んでもらったり、動物側に何かをさせたりする能力があると考えている。それが、自分が考えている自然と人工物の間にある見えないものの正体ではないかと感じている。そのような思いからタイトルを「botanical(自然)」「capture(魅了する)」とした。ファイナリスト展の3DCG作品は、私が幼い頃から慣れ親しんで来たもので、実在しているようで実在していない、自然と人工物の狭間にあるようなツールだと感じている。グランプリ個展では、一番左手にドローイング作品を配置し、一番右手の奥に映像を配置予定。ドローイングから映像までをループ構造にし、鑑賞者のイメージが膨らむような展示にしたい。

Q.たかくら「ファイナリスト展の作品の制作のプロセスは?また、その手法を取り入れている理由は?」

A.近藤「3DCG映像をプロジェクターで投影して、それを元に手書きでドローイングし、作品を制作している。3DCG映像を印刷したこともあるが、どうもしっくりこなかった。手描きすることによって体を使い、作品の中に感覚を残そうとしているのかもしれない」

 

Q.横山「キャンバスの作品は、縁のところに下塗りが見えるようになっている。あの意図は?」

A.近藤「キャンバス自体を矩形の立体物だと考えている。そのため、3DCG空間上の物体の見せ方や構造をキャンバスにも反映させると、そのような手法になった」

 

Q.中川「ファイナリスト展の作品は、3DCGの機材ではなく、プロジェクターで映像映像を繰り返し投影している。アニメーションでも良いのでは?3DCG作品である必要性は?」

A.近藤「3DCGのゲームなどでバグが発生するとステージの裏側に回れることがある。そんな幼少期の頃に体験した3DCGでないと起こり得ない現象に興味がある。なので、私の作品にはアニメーションではなく、3DCGである必要性があると考えている」

 

Q.菊地「3DCG映像が丸いかたちで映し出されていることと、周りの絵画作品が四角いかたちの理由は?」

A.近藤「映像は、他人の夢を垣間見ているような、包み込まれているようなものにしたかったのでこのような丸いかたちに。周りの絵画は、オールドメディアである矩形のかたちに落とし込みたかったため」

宮内由梨「プシュケーの帰還」

 

自分の体や心なのに、なぜコントロールできなくなるのか? そんな、人として生きることのままならなさ、もどかしさを皮膚と内臓の感受性から考えて制作している。私は生まれつき皮膚のバリア機能に問題があり、痒みに苛まれやすい。2017年にロンドンに行った時に再び症状がひどくなり、服も着られず、夜も寝ずに掻いていた。すると同居人に「What can I do for you?」と問われた。相手の気持ちは届いていたけれど、自分ですら自分に何をすればいいのかわからない中で、相手に何をしてもらえばいいのかわからなかった。こんな感覚はなくなってロボットになってしまえばいいのにと何度も思った。ただそういった状況が自分だけだと思えなかったので、制作を始めた。ファイナリスト展で使用したガーゼは、綿100%の細い糸でできているため痒みが起きにくい、私にとって大切な素材。母点の数と距離によって平面を分割する図を使ったパッチワークになっていて、湿疹をその母点と捉え、増殖していく様子を表現した。またそれを普段食べている果物の皮で少しずつ染めている。ガーゼの奥にあるのはロボットの翼。本来はロボットにしてもらう必要のない、もがいたり、震えたり、ままならない動きを表現。グランプリ個展では本作品を再構成するだけでなく、初期の作品から、遺伝子変異についてリサーチする新作に至るまでを繊細に表現し、パーソナルなところから、普遍的なところへ繋がっていく過程を丁寧に展示したい。

Q.中川「個人的な体験を元に制作しているが、どのように他者とその思いを共有しているのか?極端に言うと、発表することが共有に繋がっている?」

A.宮内「小さい頃から体の痒みを抱えていて、ずっと他者に言ってはならない、個人の責任のことだと思っていた。しかし、こうして作品にすることによって、ただ何かがそこに在るということによって、他者と自分自身と対話できる可能性が生まれる。パーソナルな経験からはじまっているが、少しずつ輪を広げていくように、星座を描いていくように、表現していきたいと考えている」

 

Q.たかくら「ロボットになってしまえば良いと思ったと話していたが、ロボットには痒みがないと考えている?」

A.宮内「痒みを託す必要があるのだろうかとまず考えたが、ロボットにはもっと得意なことがあるので、完全に人間を作るよりも、人間と一緒に生きていくようにするだろうと思った。痒みがもっと違った形でロボットに現れる可能性はある。ただおそらく私の持っている感覚や感情とは違うものだろうから、それが羨ましかった」

 

Q.中川「ロボットのアームの動きは、当初ペンギンの翼を参考にしたと聞いていたが、実際のファイナリスト展の作品づくりには、どんな変化を加えた?」

A.宮内「モーターと自重との拮抗する震え、見る側が一瞬心配になるような動きがいいなと思った。最初はペンギンの遊泳に憧れて目指していたが、徐々に形状を変え、翼全体の重さと長さとモーターの力との兼ね合いを調節した。人がフリーズしたり戸惑ったりする時の目の揺らぎ、ぶぶぶっという感じが大事なのだと作りながら感触を掴んでいった」

 

Q.菊地「なぜ、二つで一つの作品にしたのか?」

A.宮内「二つの、その合間を大切にしていて、そこでのうううっていう…」

向井ひかり「対岸は見えない」

 

地のような箱に、模様みたいに小さかったり薄かったりする作品を細々と置いたものが私の作品。なぜ一つ一つの作品が小さくなるのかというと、小さい、大きいは自分の身体との比較による感覚から生まれるものだから。作品一つ一つをイメージする時に、自分の身体が同じ画角に入っているかどうかという感覚が、実際に風景を目で見る時と、後からそれを地図と照らし合わせる時との関係に似ていると思う。そして、青森から北海道を見た時に、地図で見れば向かい側に対岸があるのだが、その場で見ると全くそういう風には思えなかったという経験から、本タイトルになった。地の箱の上の面に載っている、映像と三枚の絵で構成された《はやいぬ》という作品は、温まった洗濯物やホカホカになった犬や猫の毛に顔を埋めるのが幸せだった記憶や、自分に関係なく散歩中一心不乱に駆け抜けていく犬、各駅停車しか停まらない電車のホームで急行列車が私の目の前を走り去っていく、そんな他者が自分に関係なく全力で稼働しているところをこちら側から見ている時に、自分との関係のなさや全力さが愛おしく、ちょっと笑ってしまう、そんな作品だ。グランプリ個展では、「軽銀のNASA」というタイトルのもと、会場の大きさと自分なりに格闘するという試みにチャレンジしてみたい。

Q.たかくら「地の箱は、皺ができていたり、紙がめくれていたりする箇所があるが、これは意味があるのか?綺麗に見せるのであれば、ペンキを塗ったり、布を被せたりなど手段があると思うが」

A.向井「完璧な地をつくることが目的ではない。台座というよりは展開図のイメージ。室温などによって自然に皺になったり紙が浮いてしまったりしたものもあるが、あえてこうしたものもある」

 

Q.たかくら「地の箱の状態は、これがベストなのか?」

A.向井「自分の中ではこれがベスト。日によって綺麗な時もあれば、皺がいっぱいできている時もあるが、それはそれで良いと思っている」

 

Q.菊地「地の箱は、面的な構造になっている。線的な構造であればまた異なると思うし、全て紙でつくるとまた異なると思うのだが、実際はどのような構造になっているのか?」

A.向井「柱が真ん中に一本立っていて、その上に箱の蓋のように組み立てた木の板を被せている。床から50センチくらいは木の板はなく、紙だけが垂れている構造になっている」

 

Q.横山「一つ一つの小さな作品の素材やタイトルなどについて語ってもらったが、箱を含めた総体に「対岸は見えない」というタイトルをつけたのはなぜか?」

A.向井「それぞれの場所で派生しているものを勝手に自分が見る風景として持ってきてみる、というのが一番大きなテーマ。強引かもしれないが、それが一つ一つの作品の繋がりでもあり、作品の制作を通じてやりたかったことでもある」

山田康平「Untitled」

 

私は一貫して絵画作品を制作している。絵は一般的に「描く」という表現をすることが多いが、私の場合は「覆う、隠す」という表現をするようにしている。そのような絵の中における身体性や筆致の在り方が今のスタイルになった原体験は、子どもの頃、福井にある祖母の家に車で帰る時に何度も、九頭竜ダムを見たことである。その時に祖母や母が「村を沈めてダムをつくった」という話をよくしていたことが、自分の目で風景を見るということのきっかけになったように感じている。また、そのダムがつくられたことで作業員と村の人が結婚したり、人口が増えて小学校ができたり、という現象が起きたことも聞いたことがあり、一つの建造物ができることにより、その周辺の生態系が変わることに興味がある。これまでは縦位置の絵が多かったが、今回のファイナリスト展の作品は横位置の絵に。1.8×2.6メートルというこれまで自分の描いた横位置の作品には例のない大きさで、チャレンジングな作品になったと感じている。また、この展示では絵以外のメディアが多く、その中に混ざって展示できたことも意味があると思っている。「BUG」の会場は絵を綺麗に見せるための光量がしっかり調節できるので、グランプリ個展では、そういった環境を活用しながら今までにない大型の作品を展示したい。

Q.中川「今回の作品を含め、山田さんの作品は、赤、青、黄の三原色が広範囲で面的に置かれている絵が多い印象。その理由は?」

A.山田「赤は大地、青は海というように自然をイメージしているから。また、海であれば波が『絵を覆う、隠す』という行為に近いと考えていて、その行為自体が自然の一部であると思っている」

 

Q.中川「キャンバスに描かれているイメージは、基本的には山やビル群といったランドスケープを抽象化したもの?もしくは、その景観からエッセンスを引き出して絵を描いている?」

A.山田「何か題材にしているものや、描こうと思っているイメージがあるわけではなく、描いているうちにイメージが決まっていく。ただし、自分が興味のあるものや自分の所作などは全て絵に反映されると思っていて、絵が完成した後に絵と対峙し、これは何なんだろう、と考える」

 

Q.たかくら「絵画史の中での自分の作品の立ち位置をどう考えている?従来の作品との違いは?」

A.山田「今の時点で自分の作品は、ロスコなど抽象表現主義の作家とは決定的な違いがあると感じている。彼らの作品は、絵の中に自分が入り込んでしまうような没入感がある。一方、自分の作品はパソコンの画面のようなデジタル的な要素があり、没入できそうでできない、弾き返されそうな絵だと感じている」

 

Q.菊地「これまで縦位置の絵が多かったと語っていたが、それはなぜ?一般的に絵画は横位置の絵も多い気がするが」

A.山田「物語性があるものだと横位置も多いが、人間の体の在り方がどちらかというと縦に長い縦位置になっているため、縦位置の方がしっくり来ると考えている。身体条件的な要素によって決まっているのかもしれない」

ファイナリスト6名のプレゼンテーション終了後、休憩を挟んだ後に、審査会は後半戦へ。

各ファイナリストの作品やプレゼンテーションに対して、審査員より講評をいただきました。

講評&審議

乾真裕子「葛の葉の歌」について

 

内海「本人が自覚的なのかはわからないが、映像投影箇所の壁にグレーの塗料が塗られていて、それが物質的な印象を与える。映像の光が消えた瞬間、その壁が前景化し、パーテーションでもあり作品の一部でもあるすだれも目に入り、一気に映像に映っていた人たちのリアルさが増した。グランプリ個展で取り扱う内容には非常に興味がある。しかし、テーマとして各要素が大きすぎるので、1年間の準備期間で納得のいくようなかたちになるかどうかが心配だ」

 

たかくら「クオリティーが高い作品。映像作品としてもしっかりと仕上がっているし、社会問題とも紐づけられていて、最終的な正解である、という印象を受ける。正解ではあるが、その先の気づきのようなものが欲しいと思ってしまった。言い伝えや信仰を重視しているが、それに対する呪術性やファンタジー性が削ぎ落とされている気がする。友人の話を取り入れながら創作にもチャレンジしてほしいし、現実を越える力が欲しい」

 

中川「作品として完成されている。映像作品としてどんな風に表現すればいいのかを、熟知している。一方で、友人の語りと、乾さんが演じている役との接続が弱い気がした。また、『葛の葉』の伝説をしっかりリサーチしていることは理解できるが、それを知らない鑑賞者に理解を促す工夫が少ないと感じた。例えば、日本文化に疎い非日本語話者にどのように伝えるかなど、考えてみてもいいのかもしれない」

 

菊地「人間と狐とノンバイナリーの友人。乾さんのプレゼンテーションを聞いても、どこまで行っても接続できない。少し安易な考えなのかなと思ってしまう。何となく聞いていると、理解できそうな感じもするのだが、違和感は拭えない。そのようなストーリーとしては、綺麗な話なのだが」

 

横山「『葛の葉』伝説とノンバイナリーの友人の話と、どちらもとても繊細で、扱うにあたってディテールをしっかりと考えなければならないテーマ。両者の関係性はわかりにくいが、『葛の葉』だけでは伝わりづらい部分が友人のインタビュー映像によって補完されているところもあると思う。新しいテーマもあるようなので、今後も丁寧にリサーチして作品として発表していってほしい」

彌永ゆり子「material flow / signal」について

 

菊地「平成っぽいなと感じた。現時点でのメディアの問題まで表出している作品とは思わなかった。この時代感覚をずっと続けていくのも、作家としての一つの手なのかもしれない。あの手法を10年、20年やり続けたらどうなるのか興味がある。モノと画像の組み合わせが展示する上での安心材料にはなっているが、もう少し画像だけで勝負しても良さそうだ」

 

横山「額縁のモチーフが使われていて、絵画との関係性を想定していることはぼんやりと伝わってきてはいたが、プレゼンテーションを聞いて、絵画というものを強く意識していることがわかり、意外だった。ご自身のデジタル表現を位置付ける際に、絵画を相対するものと捉えるのであれば、額縁を登場させる以外にも、何か方法があるのかもしれない」

 

中川「絵画の中の世界と全体のインスタレーションとが繋がっているように見えない、という感想が正直なところ。ただし、お絵描きソフトでのデジタルの絵の描画過程を鑑賞者に見せる方法は面白い。」

 

たかくら「デジタルなものは絵画的表現として軽んじられるというムードと戦う気持ちはよくわかる。インスタレーションとして拡張しているが、絵画だけについてより考えられたものもみたい。インスタレーションとして展開する場合、工業製品をもっと「インターネット的なもの/ネットでしか売っていないようなもの」に選りすぐって、ホームセンターアートにならないように気をつけるとよさそう。」

 

内海「従来の絵画とデジタルで描かれた絵に対する鑑賞者の態度や評価の違いへの関心はあくまできっかけであり、そこから派生していった作品だと捉える。ネットで画像を見ることと、モノを手に入れることの感覚が近接していると述べていたが、ネットではショッピングだけでなく、意図していない余分な、あるいはショッキングな情報に触れることもある。媒体としてのネットの特性を単純化しすぎた上で、テーマに据えて制作するのは、何かが欠けている気がする」

近藤拓丸「botanical capture」について

 

たかくら「3DCG作品の空間がとても良い。歩いている最中に思いついたことを書き留めたメモ書きなども、とても良いしワクワクした。一方で、絵画の作品はしっくり来なかった。デジタル空間へのこだわりが素晴らしいなと思ったからこそ、それを手書きにすれば絵画と言えるんじゃないか、といった少し安易とも取れる印象を受けた」

 

菊地「絵画作品は、ちょっと他人行儀な印象を受ける。3DCG空間があるだけではいけないのかな?むしろ、あの3DCG空間の中に絵画を飾るという試みも面白そう」

 

中川「ファイナリスト展の作品は、メモ書き、3DCG映像、絵画、どれも平面に見えてしまう。3DCGの世界を体感しない映像投影だと、近藤さんのイメージしているものがあまり伝わって来ない」

 

横山「植物が動物の能動的な行為を誘発している、というアイデアが面白い。だが、その考え方は3DCG作品や絵画だけだと伝わりにくいのかもしれない。その補完のために説明的なドローイングを置いているのかな?テーマが良いので、もう少しエッセンスを絞って展示をしても良いのかもしれない」

 

内海「横山さんがおっしゃる通り、要素が多いかなと。絵画作品とメモ描きの作品が、3DCG空間の面白さとリンクしていない」

宮内由梨「プシュケーの帰還」について

 

中川「作品の構成が素晴らしい。一方で、宮内さん自身の身体の症状と関係が見えないのが、正直なところ。痒くて体中を掻くような体験を、この展示内容からは想像しづらい。個人的にはもう少し暴力性があっても良さそうだなと思った。その方が鑑賞者にも皮膚疾患や生きることのままならなさが伝わる気がする」

 

たかくら「自分もアトピーを持っているが、不思議とこの作品を見ても痒みの感覚などが伝わって来なかった。でも、それが良いなと思った。宮内さんの作品は自身の体験が出発点ではあるが、既に別の作品になっている。本人はそれに気づいているのだろうか?ロボットが癒しの存在になっているところも面白い」

 

内海「たかくらさんがおっしゃるように、既にこの作品は原体験を共有するという役割を担わされているのではなく、他者が自分自身のなにかを投影できる容れ物になっていると思う。このグループ展では一番高さがあり、一番奥という場所性に加えて、岩肌のように見えるガーゼや水の音の効果もあり、洞窟の奥になにかしらの生物がいる、という印象を受けた。自分にも他人にもわからない、そういう場所の大切さを表出していると思わされた。ただ、「もがく」というままならない動作や身体性からは離れてしまっているような気がするので、物体表面の質感や緊張を感じさせやすいように、ロボットの翼が片方くらい見えるように展示しても良いのかもしれない」

 

横山「見え方という意味では、スピーカーや配線が透けて全部見えてしまっているところが気になった。これは意図してやっているようには見えない。それが気になったし、本人的には良かったのだろうか?」

 

菊地「イメージレベルで言うと、宮内さんのやりたいことは達成されている作品。ただし、壁に伝ってつくられた半立体のかたちなどは造形的に弱く、成立しにくい作品であると言える。例えば、床まで使うという手もあったはず。もう少し形態としての説得力が欲しい作品だ」

向井ひかり「対岸は見えない」について

 

たかくら「やはり、地の箱の紙のよれや皺が気になる。一つ一つの作品が良いからこそ、細部が気になってしまう。意図的ではないのだとしたら、白である必要性があるのか考えてほしい。白であるということの意味は「ホワイトキューブ」の問題と結びついて非常に大きい。緊張感のある「地」である必要がないのであれば、別の素材や色でも良かったのでは?」

 

内海「光や湿度、温度といった空間の条件によって紙がコントロールを越えたところで変化することを作品の要素として捉えているが、何によってコントロールできないのかまでは把握できていない印象。単純に、場数の問題のような気がします。ただし、大きさの異なるものの組み合わせやスケール感に関しては上手い。バグるという意味では、個人的にスケール感のバグが生じたので、今回の展示作品のなかでは一番バグっぽいと感じた」

 

菊地「白い紙が問題なのではなく、構造が問題なのでは?中を空洞にして、床の方は紙だけの構造にすることでもっと柔らかい印象になると考えていたんだと思うが、そうならなかったのだろう。一つ一つの作品はすごく丁寧につくっていて良いし、地の箱ももっと良い状況にできるイメージが見えているからこそ気になる」

 

横山「ファイナリスト展の中で唯一、空間芸術というか、この会場に対して設置された作品であるという印象を受けた。自分がどの場所になるのかわからない状況の中でこのかたちにたどり着いたのは素晴らしいし、作品一つ一つも観るのが面白かった。仕上げに関しては課題があるが、向井さんが持っているその感覚は大事に育てていってほしい」

 

中川「自分の身体感覚をもってして、違う視座のものを一つの作品に集約するというすごいパワーを持つ作品。それぞれの細かな作品がどれも面白く、独創的。これは、(制作側の課題ではなく施設の問題なので)ナンセンスかもしれないが、将来、大きな美術館で展示をする場合に、美術館内で長期展示・保存できる構造のものを作れるのかが、少し心配だ」

山田康平「Untitled」 について

 

横山「山田さんの作品は以前にも観たことがあり、完成度の高い作品だとわかってはいたが、今回の作品も、赤く塗られた面とのギャップもあり、左にあるオブジェクトにしっかりと奥行きを感じた。色の組み合わせだったり、筆跡の残し方だったり、絶妙にコントロールしている。表面と奥行きを一枚のキャンバスに共存させることは、これまでの多くの画家が試みてきたことではあるが、山田さんの面と奥行きが共存しているこのスタイルは他にはないし、とても面白い作品だ」

 

内海「大きなサイズへの試みなど、端から見たら分からないけれども本人にとってのチャレンジができている。だが、その面白みや大切さは、残念ながら一回の展示だけではなく継続的に年月をかけて作品を見ていかないとわからない。それを踏まえた上でグループ展で一点勝負する潔さが心地良い反面、キュレーターとしてはなにか欠けているという感触も拭えない。プレゼンテーションやテキストが先行してしまい、絵自体でその実践に触れることが難しい展示になっているので、複数の作品で伝えるというアプローチもありだったのかもしれない」

 

たかくら「絵はかっこいいなと思ったが、それ以降の意図や思いは、伝わりにくい。今日プレゼンテーションを聞いて、初めて山田さんの考えや意図がわかった。やはり、複数の作品を展示した方が良かったのでは」

 

中川「山田さんの作品はみなさんがおっしゃる通り、技術的にも完成されている作品であると言える。今回はグループ展で制約があったのでこのかたちになったのかもしれないので、もっと広い会場でもっとたくさんの作品を観てみたい」

 

菊地「完成度が高いというよりは、センスが良いなと思う。サイズが大きいので、一枚だけの展示でも気にならない。だが、上下方向の掛ける位置が気になった。考えうる限りの凡庸な高さになっていて、これが意図しているようには見えない。これだけさまざまな形態の作品がある中で横並びにしてしまうと、商品陳列のように見えてしまう」

ファイナリストそれぞれの作品に対する講評が終わり、いよいよ投票へ。

まずは、グランプリの候補に挙げたいと思う2名のファイナリストを審査員それぞれに選んでいただきました。

 

1回目の投票結果

内海:宮内、向井

菊地:向井、彌永

たかくら:彌永、近藤

中川:宮内、向井

横山:乾、近藤

 

票を集計すると、向井ひかり3票、彌永ゆり子 2票、近藤拓丸 2票、宮内由梨 2票、乾真裕子 1票という結果になりました。票が割れたため、2回目の投票に移る前に、審査員の方からそれぞれ2名を選んだポイントについて一言ずつ語っていただきました。

向井ひかり「対岸は見えない」について

 

内海「審査書類には収まらないなにかが形になっている。グランプリ個展でも、予想を超えて面白いものをつくってくれそう(宮内さんへも同意見)」

菊地「一つ一つの作品の完成度が高い。今回の作品も充実感があるし、個展も観てみたい」

中川「着眼点が面白い作品。アイデアが独創的だと思う。」

 

 

彌永ゆり子「material flow / signal」について

 

菊地「もしかすると、大きなことをやってくれるかもしれない、という期待を込めて」

たかくら「つくりたいものが明確にある。彌永さんの作品の世界観が見えた」

 

 

近藤拓丸「botanical capture」について

 

たかくら「デジタルへの考え方などにシンパシーを感じたし、グランプリ個展への期待を込めて」

横山「今回の限定された空間から、個展で展示スペースが広がった時にどんな展開をするのか観てみたい」

 

 

宮内由梨「プシュケーの帰還」について

 

内海「審査書類には収まらないなにかが形になっている。グランプリ個展でも、予想を超えて面白いものをつくってくれそう(向井さんへも同意見)」

中川「表現したいもののアイデアと、それを遂行している感じが伝わった。会場でこれまでの作品も観たい」

 

 

乾真裕子「葛の葉の歌」について

 

横山「完成度が高かった。グランプリ個展のプランが実現するところを観てみたい」

それぞれのファイナリストへの期待や励ましともとれるコメントをいただいた後は、改めて投票を行います。審査員の方には、1回目の投票で票が入った5名から1名を選んでいただきました。

 

2回目の投票結果

近藤拓丸:2票

向井ひかり:2票

宮内由梨:1票

 

またしても票が割れ、最終決戦へと持ち越されます。最後は、2票ずつ獲得した近藤拓丸さん、向井ひかりさんの2名のうちグランプリに推薦したい1名を投票していただきました。

 

3回目の投票結果

向井ひかり:3票

近藤拓丸:2票

最後まで票が割れましたが、3票を獲得した向井ひかりさんが「BUG Art Award」初のグランプリに決定しました。

向井さん、おめでとうございます!向井さんのグランプリ個展は、同会場で約1年後に開催する予定です。ぜひ、みなさまお誘い合わせの上、ご来場ください。

ファイナリスト インタビュー

 

向井ひかりさん(グランプリ受賞)

自分がやっていることを死ぬまでにわかりたい、という思いがあり、審査員の方に作品を見てもらえたらという思いで、応募しました。時間をかけて考えるタイプなので、アワードとしてタイムリミットがある場は、私にとってはとても大変でした。とはいえ、このくらいのスピード感で進めることでしか見えてこないこともあるので「BUG Art Award」に挑戦して本当に良かったなと思います。審査のなかでは、楽しそうに仕事をされている審査員の方々と作品を通して語り合うことができて、貴重な経験となりました。グランプリ個展まであと一年。ファイナリスト展の時までに自分の中で答えの出なかった課題に対してもう一度よく考え、個展では自分の納得のいく展示をしたいと思います。

 

乾真裕子さん

「BUG」のWebサイトを見た時に、美術業界だけに閉じていない開かれたアワードである印象を受けました。このアワードなら、私の作品も見てもらえそうだなと思い、応募してみました。目の前で審査が行われている場を見るのは、初めての体験。率直な意見を言ってしまうと、とても緊張したし、疲れる体験だったなと。この先もこのアワードは、2回、3回と続いていくと思います。私が今回ファイナリストに残ったことで、同じように社会問題などに関心のある作家がチャレンジしやすくなったのであれば、嬉しいですね。

 

彌永ゆり子さん

私は京都に在住しているんですが、搬出や審査で集まる度に交通費支給などのサポートがあり、ありがたかったです。ファイナリスト展のそれぞれの作品の展示場所などは、一般的なコンペであれば主催側が決めてしまうものだと思うんですが、「BUG」では自分たちで話し合い決めます。そういう他にはないプロセスが、とても良いなと思いました。インスタレーション作品に挑戦したのは初めてでしたが、今回の評価やアドバイスを元に、この先もやってみようという気持ちになることができました。おかげで、作家として挑戦するべきことが見えて来たように感じています。

 

近藤拓丸さん

審査会は緊張しましたが、審査員の方がじっくりと丁寧に審査をしてくれてありがたかったですし、おかげで次の作品制作のアイデアが湧いてきました。正直に言うと、今回の作品は自信がなかったので票が入るとは思っていなかったんです。票をいただけた時は驚きましたが、他人の評価を気にせず、これまで夢中で頑張って来たことが審査員の方に伝わったのかなと。仕事との両立が大変で、今回うまくいかなかったら一度作家業を休もうと思っていましたが、思いがけず作家としてのモチベーションが上がる体験となりました。当たって砕けろ精神で、次回もぜひチャレンジしてみたいです。

 

宮内由梨さん

今回のファイナリスト展では、技術的にも、表現的にも、自分にとって挑戦の多い展示をすることができました。設営方法などに関しては完璧ではない部分もありましたが、自分がやりたかったことを見せることができたように感じています。審査会では、ある審査員の方が制作の意図を代弁してくれた局面もあり、作品を通じて伝わったことがわかって嬉しかったですね。水紋が広がっていくように、これからも続けていきたいなと思っています。

 

山田康平さん

このコンペは、今回が一回目。フレッシュで権威性のない、これからつくり上げられていく審査の場で挑戦したいという思いから、応募しました。特に面白かったのは、審査会で他の作家の作品に対する講評を聞けたこと。学芸員の方たちは、普段こんな風に考えているんだな、というような基準が見えて興味深かったです。審査員としての責任はもちろん、作家への質問を自分自身にもぶつけていて、それがすごく良いなと思いました。また、審査会に至るまで何度も集まる機会があり、ホスピタリティーも素晴らしく、作家へのサポート体制が整ったありがたいアワードだったなと。参加できて良かったです。